2018年4月16日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日(枝の主日)

十字架を担うキリスト,作者不明,1520年ころの作
Museum voor Schone Kunsten (Gent)

しあわせの形と心のつよさ

枝の主日(マルコ 14.1 - 15.47)

枝の主日の朗読は聖金曜日の朗読に似ています。でも,その中心となるモチーフは違うように感じています。

聖金曜日がイエスの苦しみと、その苦しみのうちに顕される神の愛を核とするなら、枝の主日のモチーフはむしろ、この神の愛に向かう人間の様々な態度にあるように思います。

この態度は今日の朗読の中で、また私たちの生活の中で,鮮明にコントラストをなしています。

過越祭をまえにエルサレムは緊張に包まれています。群衆の待望と、為政者たちの奸計と殺意、そしてイエスに従う者たちの不安と恐怖が,渾然とその都市を覆っていました。

群衆の待望は、ユダヤ人をローマの支配から開放してくれる政治的指導者に向けられています。だから入祭の朗読(マルコ 11.1-11)では彼らは棕櫚の枝を振って「新しい王」のエルサレム入城を祝います。

でも,もちろん,この待望ははかないもので、彼らの心は為政者たちにそそのかされて変わります。入場のを祝う歓声は、すぐに福音朗読にある、この新しい王を「十字架につけろ」という叫びに変わってしまします。

枝の主日は,わたしたちに踏み絵を迫るようなコントラストを見せます。

一方では,憎しみと嘲り、恐怖と不安が渦めいています。ペトロとヤコブとヨハネは、血と涙を流して祈るイエスを残して,眠ってしまいます。ユダはイエスを売って、銀を手にします。祭司長たちと最高法院は,偽証をならべ、奸計の枠を狭めてゆきます。そのなかで,兵士たちは、いち早く力あるものの側につき、無実の人にあざけりを向けます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」それを見た祭司長たちは,それをあおるようにあざけります。「他人は救ったのに、自分は救えない。... 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」

他方で,イエスはその間、沈黙のうちに留まります。福音には「何もお答えにならなかった」と記されていますが、その姿は他の朗読箇所がもっと詳しく描いています。イザヤは「主はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった」;「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と語り、パウロは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」したと語ります。イエスは、父なる神の語りに忠実に、自分の道を歩もうとします。

わたしたちは,ユダのようにイエスを売ることはしないでしょうが、苦しみを身に受けようとするイエスに本当に付き従うほどの愛があるのかどうかわかりません。

ピラトはこの二つの力のあいだを漂っています。彼は,かならずしも祭司長たちの言うままに受け取りはせず、イエスにその真偽を確かめようとしています。また,理不尽に見える決定を迂回しようと、囚人の解放を提案してもいます。しかし結局、自分からは何も決めず、促されるままにイエスを兵士たちに差し出します。彼は、人はだれでも死を恐れ、権力に屈するはずだと思っていたのでしょうか。彼は突き動かされ、流され、世の波にのって自分の地位を守ろうとします。


ところで,わたしたちは、毎日の日常のなかで何をもとめているのでしょうか。今日、この聖堂の外には、桜が満開となった最初の日曜日で、お花見の祝祭の雰囲気があふれています。それと対比すれば、この聖堂のなかで祝われている枝の主日は、どこかおどろおどろしいもののようにも見えるでしょう。

人は,誰しもつらさを逃れ、楽しさに惹かれるものですが、そのなかに自分への呼びかけに応える実感と、かみしめるような深い充実が宿っているとは限りません。

Facebook で、Twitter で、Instagram で、人々は「自分は幸せを感じている側の人間だ」と互いに喧伝し、自分にもそう信じ込ませようとしているように見えます。また,ソーシャルメディアの外で顔と顔を合わせて出会う人でさえ、その持ち物で、姿勢で、表情で「わたしは社会的に惨めな者ではない」と語りあってるように見えることもあります。

ひとりひとりがその写真と笑顔の裏に抱えているはずの悩みや辛さ、憧れや希望を、人は誰にも見せないまま、この世を渡り、人生を過ごしてゆくのでしょうか。

わたしには,そんな世の在り方が、自身のうちに不安と妬みを宿しながら、イエスをいけにえに見立てようとして「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と、イエスを責めた祭司長たちの姿に重なって見えます。

確かに,人が自分を見下さず、幸せなものとして見てくれることは,私たちの心を軽くしてくれます。しかし,人の目が、わたしたちが自分のこころの奥に感じるはずの、深い安心や感謝や幸福感を作り与えてくれるわけではありません。

人が受け入れようと、さげすもうとも、イエスのうちに変わらずに響いているのは,「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」(イザヤ)という実感でしょう。

そこを離れては、目に見える幸せも、偽りを映しこんでしまうような素地が、そこにはある気がします。世の人の声に従い、世の人の目に美しく見せようとしても、こころに深く呼びかける神の声をおいては、こころが嘘なしに満たされることもないでしょう。

イエスは、広い門、恐れの唆しに迷わされることなく、人が本当に祝福を抱きしめることのできる道を示してくれています。

怖いからと言って、恐れに聞き従う人の耳には、その声が小さくなるとは言っても、結局,恐れのささやきが残るでしょう。先を進まれるイエスとともに、こころを強くして、祝福の呼びかけに耳を傾け、その方へ進めば、祝福の感覚は,はじめには小さく、人の目にも留まらないにしても、かならずこころの底にゆるがない明るさと暖かさを伝えてくれるものだと思います。

2018年4月2日月曜日

主の御復活おめでとうございます

Anastasis : Jesus raising Adam and Eve by their hands. Behind them stand other biblical characters (John the Baptist, David and Solomon) and righteous kings. Fresco in the Chora Museum, Istanbul.


ご復活に感謝


もしわたしが苦しまなかったら
どうしてイエスさまの苦しみがわかっただろうか
もしイエスさまが苦しまなかったらば
どうして神様の愛がわかっただろうか

二週間ほど前から,この祈りを祈り続けています.

神に感謝.

私の友人の弟が,リマで爆弾テロで負傷して,失明の暗黒状態から多少の明かりを感じるようになりました.

快復を祈り,明後日から九回目のノベナです.朝食の断食と,主の祈り六回を毎日捧げています.

九日間のノベナをいつまで続けるか,主イエスのお言葉を待ちます.

ゲッセマネでの祈りからご復活までが,私の人生の全てです.

ひとつだけ分かち合います.

ペトロが三回イエスを拒んだ後,主は振り向いてペトロを見つめられました[注:ギリシャ語原文では : καὶ στραφεὶς ὁ Κύριος ἐνέβλεψε τῷ Πέτρῳ (Lc 22,61). 動詞 ἐμβλέπειν が「見つめる」です].

NJBNew Jerusalem Bible : ニューエルサレムバイブル)では,

and the Lord turned and looked straight at Peter

と訳されています.

そして,主は,振り返って,ペトロを真っ直ぐ見た.

「真っ直ぐ」という言葉が書かれています.主は,ペトロだけを見つめました.

私は,この straight という言葉だけを黙想して,主に出会いました.私は,その瞳と逢って,「私を創った人の眼だ」と直感しました.

私達一人ひとりを,主イエスは「真っ直ぐ」に見つめています.

ご受難のときの言葉は,七つしかなくて,イエスのお気持ちを私達は想像するしかありません.

「真っ直ぐ」私を見つめたとき,主が何とおっしゃったかを,私は直感しています.それは:

「わたしは,あなたの苦難や貧しさを知っている.だが,本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録 29節).

ペトロ宮野亨

2018年4月1日日曜日

主の御復活おめでとうございます!


Resurrexit sicut dixit, alleluia !

主の御復活おめでとうございます!

改めて強調するまでもありませんが,Jesus の復活は,地上的な生に「生き返る」ことではなく,永遠の命への復活です.かつ,「地獄」からの復活です.

ニケア・コンスタンチノープル信条にはそのくだりはありませんが,使徒信条では,「三日目に死者たちのうちから復活し」の前に,Jesus Christ は「地獄に降りた」と言われています.勿論,公式な日本語訳では「冥府(よみ)にくだり」です.しかし,ラテン語では « descendit ad inferos » です.「地獄」(inferi) という語が確かに使われています.

地獄に関して,数日前にこんなニュースがありました.イタリアの全国紙 La Repubblica の創立者であるジャーナリスト Eugenio Scalfari による Papa Francesco の「インタヴュー」が,0328日付の同紙に掲載されました.そのなかで,教皇は「地獄は存在しない」と言ったことにされていました.それに対して,Vatican の広報室は,翌日すぐさま,そのことを否定する声明を発表しました:教皇は Scalfari を個人的に接見したが,インタヴューを受けたわけではなく,しかも,教皇の言葉として記事に書かれてある文章は,教皇の実際の発言を忠実に再現しておらず,Scalfari 自身の作文にすぎない.

この件を,USA のイエズス会の週刊誌 America も,0329日付で報道しています.

それによると,教皇は,20143月,マフィアに向かって警告して言っています:「犯罪行為をやめて,回心しなさい.さもなければ,あなたたちを待っているのは地獄だ」.

また,20150308日にローマ市内の或る小教区を訪問した際,教皇は,ガールスカウトの少女の質問:「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言っています

あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です. 
では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています. 
しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました:「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」. 
神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから. 
地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です. 
そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです 神との関係を全然欲しがらずに. 
他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う:「主よ!...」. 
その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く. 
イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う:「主よ,わたしを憐れんでください!」. 
すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 
なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです. 
地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです:「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます. 
わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

さすが Papa 様!わかりやすいお話しです.神の愛を信ずる者は,かならず救われ,イェス様といっしょに永遠の命へ復活させていただけます.神の愛は,うらぎりません.

改めて,主の御復活おめでとうございます!よい復活節をおすごしください!

ルカ小笠原晋也

2018年3月26日月曜日

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日


Innocenzo da Petralia (1592-1648), il Crocifisso (1637), nella Chiesa di San Damiano, Assisi
 
聖週間が始まりました.わたしたちが主の受難の悲しみと主の復活の喜びに与ることができるよう,祈りましょう.主よ,あなたは,わたしたち皆の罪を贖うために,わたしたちの身代わりとなって,十字架にかけられ,処刑されました.そして,わたしたち皆が永遠の命に与ることができるよう,死者たちのうちから復活して,わたしたちに命の約束と希望を与えてくださいました.誰をも排除せず,あらゆる者を包容するあなたの愛に感謝します.わたしたちが死の不安を耐え抜くことができるよう,慈しみ深くわたしたちを見守り続けてください.この復活祭の機会に,あなたが Saul を回心へ導いたときのように,差別と暴力を世に広げる者たちにあなたの栄光を顕し,憎しみに蝕まれた彼らの心を癒してください.あなたを識ろうとしない日本社会のなかで,わたしたちが神の愛の福音を宣べ伝えることができるよう,わたしたちを導いてください. 

今月13日,Papa Francesco は,教皇着座五周年を迎えました.彼のために祈りましょう.主よ,使徒ペトロの後継者である Francesco は,律法により断罪することをやめ,愛を以てあらゆる人を神の家へ迎え入れるために精力的に働いています.あなたの忠実なしもべである彼を,祝福してください.彼がカトリック教会からあらゆる差別を廃止するよう,彼を導いてください.彼の教皇座のもとで,より多くの人々が神へ向きなおることができるよう,彼を助けてください.

四旬節第二金曜日(今年は3月2日)は,児童に対する性的虐待の被害者たちのために祈る日でした(日本では,日本カトリック司教団がそのように定めた.国によって異なる).世界中で,歴史的に同性愛を断罪してきたカトリック教会のなかで,実は,聖職者による児童の性的虐待事件が少なからず起きていたという shocking な現実を振り返り,今も心に深い傷を負ったままの被害者たちと,罪深い加害者たちのために祈りましょう.主よ,あなたの愛し子たちのなかに,あなたに仕えるはずの者たちの過ちによって,苦しみ続けている人々がいます.慈しみ深く彼らを癒してください.彼らを傷つけた者たちが,心から罪を悔い改めることができるよう,導いてください.

政令指定都市のうち,札幌市に続いて,福岡市と大阪市で,同性カップルのパートナーシップを認定する制度が始まろうとしています.日本での同性婚法制化のためにいのりましょう.性的指向や性同一性にかかわらず,愛し合うカップルすべてを祝福してくださる主よ,世界では同性婚が法制化された国々が既に30近くあります.日本でも,異性カップルと同等の権利が同性カップルにも認められるようになるよう,人々の心をあなたの愛で満たしてください. 

病気療養を続けていらっしゃる小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.あわれみ深い主よ,あなたの忠実なしもべ,小宇佐敬二神父が,病のために苦しんでいます.あなたの愛で彼を支えてください.慈しみ深く彼を癒してください. 

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年02月25日


Raffaello (1483-1520), La Trasfigurazione (1518-1520), nella Pinacoteca vaticana

2018年02月25日(四旬節第二主日)の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様の説教


鉢の花を活け替える

福音朗読:マルコ 9, 2-10

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、 高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

これは「ご変容」と呼ばれる個所です。

ある人の表情や姿が輝いて見える,
ということはないでしょうか。恥ずかしくなってしまうくらいに素直に見つめられて、その印象が心に焼き付いて離れないということはあるかもしれません。弟子たちにはそんな経験だったのではないでしょうか。

今日,わたしには,イエスの眩しいほどに清々しい表情、怖いくらいに吹っ切れた姿が,思い浮かんでいます。

四旬節は「心を新しくしていただく季節」という気がします。四旬節をベランダのプランターの花を植え替えることに喩えた話を,読んだことがあります。四旬節は、春を待つこの季節に、まだ少し残っているかもしれないプランターの中身を、土を出して、掃除をして、新しい土と新しい苗に入れかえて春を準備することに,確かに似ている気がします。新しい命をいただくために、古くなりかけていた自分を脱ぎ捨てて、もう一度新しく自分を始めようとするようなものでしょうか。

ところで,わたしは以前,スマートフォンというものを持っていませんでした.ですから,ゲームをするということを知りませんでした.ある日,知り合いの神父さんがコンピューターでゲームをしているのを見て,「ええ,ゲームなんかするの,この人は」と,思ったことがあります.でも,すごく良い神父さんだったので,「ああそうかなあ」と思い直して,自分もしてみました.たしかに,少しいいものでした。イライラするとき,何をしたらいいか,わからないときには,その隙間を埋めてくれるものです。

でもしばらく,後になって気づいたんですけれど、私は,一つの作業と次の作業の間に考え事をしなくなっていました。ゲームを始める前には「さあ何をしようかな,少し時間があいちゃった,どうしようかな... う~ん... 午前中こんなことがあったな,ああ明日から,今日から...」と,いろんなことを考えていました.空いた時間,わたしはいろんなことを考えていました.午前中あったこと,午後あること,会った人,これから会う人,神様のこと,雑誌に載っていたこと...。それがゲームをするようになってから,その隙間が全部,ゲームに変わってしまった気がしました。

回心というものは,別に,「ああ!悪いことをしました!」と大きな悔い改めをすることばかりではないように思います。もしろん,そういう回心の呼びかけを感じる人は,すぐにしたほうがいいに決まってはいますが.でももっと小さなものでも、自分の心と生活のなかにある余計なもの、もっと自分の命と心が活き活きと動き出すためにすこしじゃまになっているようなものを、心と生活の中から除けるだけのことも、すばらしい回心(別の考え方をすること)だと思います。「これがあれば助けになっているかな」と思って自分のところに残しておいたものでも、もしかしたら「いらないもの」かもしれません。いつか振り返って「ああ本当に良かったな,あのときこれを選んで」って思えるものじゃないものは、捨ててしまっていいと思います.必要なものならきっとまた手に入れようとするはずですから。

私は,今日のイエスの「眩しいほどに清々しい表情」の背後に、イエス様が自分の本当に欲しいものを選び取って、それ以外のものを置いてゆくことに何の未練もなく心を決めることができた出来事があるのを,思います。

今日の福音の直前にあるのは、「わたしは,祭司たちに,人々に,引き渡されて,三日めに死者のうちから復活する」(マルコ 8,31-33)というイェス様の宣言です。ペトロが「そんなことを言ってはいけません」とイエス様を引きとめると,イエスはペトロを「下がれ,サタン」と叫んで、彼を叱り、退けます。

恐れ,ひるみ、また不安へと誘われる心に打ち勝って,イエス様はご自分の道を選び取られます。

自分の進みたい道がはっきりと分かり、それを自分ではっきりと選ぶことができたときの緊張と高揚感、清々しさ、そして神々しさを、わたしは今日の福音のイエスさまの姿のうちに感じているのだと思います。

四旬節は,とても気持ちの良い季節です.ちょっと寂しい季節ですけれども,気持ちの良い季節です.ぜひ,恵みのある四旬節になりますように.

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2018年02月25日


Carl Bloch (1834-1890), Transfiguration of Christ, Hope Gallery, Salt Lake City, USA

四旬節です.主の御復活の喜びに与るための心の準備の期間です.わたしたちをいつも新たな回心へ導いてくださるよう,主に祈りましょう.主よ,あなたは,Papa Francesco が改めて引用したように,過越を迎える二日前,オリーヴ山で弟子たちにこうおっしゃいました:「不公正と悪がはびこり,大多数の者たちの愛は冷え込む」.二千年前のあなたの言葉は,神の愛の福音を拒み続ける日本社会の現状を,正確に描き出しています.慈しみ深い主よ,わたしたちの冷え切った心を,あなたの愛の聖霊であたためてください.祈りと施しと断食によってわたしたちが神の言葉に心をより開くことができるようにしてください.わたしたちが「能動的信徒」としてあなたの愛の福音を他者へ伝えることができるよう,わたしたちを勇気づけてください.


今月11日は,Notre Dame de Lourdes の祝日であり,また,世界病者の日でした.癒しと赦しを願って祈りましょう.主よ,あなたはこうおっしゃいました:「わたしが世に来たのは,健康な者たちのためではなく,病む者たちのためである」.また,こうもおっしゃいました:「義とされるのは,律法によって自己正当化するファリサイ人ではなく,自身を罪人と認め,悔いる徴税人である」.慈しみ深い主よ,わたしたちが自身の病と罪を否認することをやめ,自身を「病む者」,「罪人」と認める勇気を持つことができるよう,わたしたちをあなたの愛で導いてください.あわれみ深くわたしたちを癒し,赦し,救い,あなたの永遠の命に与らせてください.

聖職者による児童の性的虐待のスキャンダルによって,カトリック教会から人々の心が離れ,教皇への不信感も増しています.わたしたちの聖なる教会と,主の忠実なしもべ Papa Francesco と,わたしたちを司牧する司教と司祭たちのために祈りましょう.わたしたちの教会の頭である主よ,あなたのからだであり手足である教会が,あなたの意志に常に忠実であることができるよう,導いてください.信徒の司牧以外にも,さまざまな雑務に追われて,疲れ切っているかもしれない司教や司祭を,あわれみ深く癒してください.特に,聖ペトロの後継者 Papa Francesco を改めて祝福し,カトリック教会をまことにあなたの愛の神殿としようとする彼の改革の努力がより豊か実を結ぶようにしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

共同祈願,2018年01月28日,LGBT 特別ミサ


 Caravaggio (1571-1610), La Conversione di San Paolo (1601),
nella Cappella Cerasi della Basilica di Santa Maria del Popolo a Roma

新たな年の最初の月を迎え,神に感謝して祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,万物を無から創造し,あなたの作品をすべて善きものとして祝福してくださいます.あなたは,わたしたち皆をあなたの似姿として創造し,わたしたちが今あるがままに,わたしたち皆をあなたの愛し子として受け入れてくださいます.わたしたちは,あなたの御わざを賛美し,あなたの愛に感謝します.今年も,わたしたちを慈しみ深く見守ってください.わたしたちが主イェス・キリストにならって生きて行くことができるよう,聖霊の恵みでわたしたちを満たしてください. 

キリスト教徒すべての一致のために祈りましょう.毎年1月18日,初代教皇聖ペトロのローマ司教座の祝日から,25日,聖パウロの回心の祝日までの八日間は,キリスト教徒の一致のために祈る一週間と定められています.今年のテーマは,出エジプト記から取られた言葉:「主よ,力強く輝くあなたの右手は」でした.全宇宙をすべる主よ,力強く輝くあなたの右手によって,わたしたちを無と死と罪から救い出し,永遠の命に与らせてくださることに,感謝します.あなたの愛によって,あらゆる差別と憎しみと暴力をこの世から取り去ってください.わたしたちが,愛と平和のわざを為し,対立と差異の裂け目に橋をかけて,多様性における一致を実現することができるよう,わたしたちを聖霊によって導いてください. 

先日,自身が gay であることを公表した京都府長岡京市の市会議員,小原明大(おはら・あきひろ)さん,および,同様に come out して社会正義のために活動している人々のために祈りましょう.悪をしりぞけ,善をもたらしてくださる主よ,社会において正義と公正を実現するために働く人々すべてを祝福してください.特に,sexual orientation と gender identity に関して差別され,いじめられている子どもたちの救いとなるために,勇気を以て come out して生きている人々に,よりいっそうの祝福を与えてください.彼れらのわざによって,社会に平和の実を豊かに実らせてください. 

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.