2015年8月30日日曜日

映画「カミングアウト」自主上映会を改めて御案内します.

映画「カミングアウト」自主上映会を再度御案内します.同性愛の男子学生がカミングアウトするまでに経験する困難と葛藤をテーマにした作品です.

入場無料.ただし,小笠原晋也まで事前に御連絡ください :
ogswrs@gmail.com

日時は,9月13日(日曜日)13時上映会開始.

場所は,カトリック本郷教会信徒会館 3 階集会室.

本郷教会の聖堂(文京区本駒込 5-3-3)ではなく,聖堂の裏の路地をはさんだところにある信徒会館(文京区本駒込 5-4-3)です.

わかりにくければ,小笠原晋也までお電話ください : 
090-1650-2207

2015年8月25日火曜日

聖書のなかの「宦官」について

宦官は,古代,中国だけでなく,中近東諸国の宮廷でも登用されていました.旧約聖書の三大預言書のひとつ,イザヤ書の一節 (56,3-5) に,宦官への言及が見出されます.

預言者イザヤは,神の言葉をこう伝えています:「宦官でも,神の律法を守り,神の喜ぶことをするならば,神の家のなかに居場所が確保される」(56,3-5).

実は,同じ旧約聖書の申命記には,去勢された者は神の民の集まりには入れないと記されています.ですから,イザヤ書に述べられていることは精神的進歩です.

「宦官」はギリシャ語で εὐνοῦχος です.その語は,宮中に仕える狭義の宦官だけでなく,去勢された者全般を指します.

εὐνοῦχος の派生語 εὐνουχισμός は「去勢」です.

マタイ福音書の一節 (19,12) で,イェスは唐突に「宦官」について語ります:「実際,宦官として母胎から生まれた者があり,人々により宦官にされた者がある.また,天の御国のゆえにみづから宦官になった者がいる」.

続けてイェスは「理解できる者は理解せよ」と言っていますから,この宦官についての彼の発言をどう解釈すべきか,じっくり考えてみなければなりません.

邦訳聖書(共同訳,フランチェスコ会訳)では「宦官」が「結婚できない者」と訳されているので,さらに理解困難です.フランチェスコ会訳では一応,「結婚できない者」はギリシャ語原文では「宦官」と訳される語である,と注釈が付けられてはいますが.

しかし,「宦官」を「去勢された者」と読みかえればどうでしょうか?「生まれつき去勢されている者があり,人々により去勢された者がある.また,天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる.」

実際,天の御国のために自己去勢した者がいます.たとえば,教父のひとりである Origenes (185-253). 彼は偉大な神学者ですが,しかし,神からいただいた身体をみづから損傷したがゆえに,聖人には列せられていません.

去勢は,しかし,身体的なものに限定されません.「去勢」と関連する聖書の語は「割礼」です.ユダヤ教徒は,旧約聖書の律法にもとづき,男児に割礼を施します.しかし,既に旧約聖書において,重要なのは肉に施される割礼ではなく,「心の割礼」である,と述べられています.

聖パウロはローマ書簡 2,25-29 で「割礼を受けていても,律法に違反するなら未割礼者と同じだ」と論じつつ,最後にこう言います:決定的なのは「霊気 πνεῦμα において心に施される割礼であり,律法の字面において肉に施される割礼ではない.」

かくして我々は,castration spirituelle[霊気における去勢]という表現を作り出しても良いかもしれません.それはまさに精神分析においてかかわる去勢です.

なたは,自有 [ Ereignis ] のために霊気的去勢を敢行する勇気を持ち得ますか?

ともあれ,先ほど引用したマタイ福音書の一節 (19,12) のイェスの言葉:「天の御国のゆえにみづから自身を去勢した者がいる」を,我々はむしろこう読むべきかもしれません:「天の御国に入るためには,我々は自身を去勢せねばならない」.

男性性器の包皮を切り取る割礼だけでは不十分です.しかも割礼は,律法に規定されたことを慣習的に実行するだけのことであれば,「肉の割礼」にすぎません.

それに対して我々は,包皮を切り取るだけで済ますのではなく,通常の意味での男性性を象徴する phallus そのものを切り取らねばなりません.

勿論,かかわっているのは,物理的な去勢ではなく,霊気的な去勢です.聖なる霊気,Sanctus Spiritus, 聖霊の作用によって,霊気的な去勢を授かることがかかわっています.

なぜ我々は霊気的な去勢を授からねばならないのか?なぜかというと,それは,霊気的な去勢こそ,乙女マリアのように神の意志に従順であることを我々に可能にするからです.

LGBT に対する差別意識と,女性に対する差別意識は,ともに同じものに根ざしています.それは,俗に男尊女卑と呼ばれている心性です.つまり,男性性を象徴する phallus を金の仔牛のように偶像崇拝することです.

そのような phallus 偶像崇拝こそ,霊気的な去勢によって除去されるべきものです.そして,それは,天の御国に入るための必要条件です.

2015年8月21日金曜日

一部のカトリック信徒たちに共有されている根深い LGBT 差別意識について

「カトリック」と名のる FB グループがあります.確認しようがありませんが,そう名のるからには,参加者は大部分,カトリック信徒か,または,信仰としてのカトリックに関心を有する人々であるはずです.わたし(小笠原晋也)も一時期そこに参加していました.

参加してすぐさま驚かされたことに,参加者のなかに LGBT に関して無理解と偏見に基づき非常に差別的ないし侮辱的な発言をする人々が少なくありませんでした.

そのような発言に対して,LGBT に関する正しい知識を説明したり,偏見を解こうとしたり,始めのうちはいろいろ努力していましたが,同様の発言は相異なる人々により次から次に繰り返されて行きました.

ついに,そのような FB グループの場でいくら努力しても無駄だと思うに至り,わたしはそこから退会しました.

そして,その代わりに,本当にカトリック教会が LGBT の人々を「敬意と共感と気遣いを以て受け容れる」(『カトリック教会のカテキズム』 2358項)ことができるよう,この LGBT カトリック・ジャパンを立ち上げることになりました.

わたしが退会した後もがまん強く FB グループ「カトリック」に残り,LGBT を擁護する努力を続ける人もいました.そのような人のひとりが,昨日,8月20日,この写真をグループに投稿しました.



「同性婚が嫌いなら,ノンケの連中を責めるんだな.同性愛の赤ん坊を生み続けているのはやつらなんだから.」

この看板がどこに出されていたのかは不明ですが,写真は The Guardian 紙からわたしが引用したものです.同性婚のカップルは自分たちだけで子どもをつくることはできませんから,同性愛的に規定された性本能を持つ赤ちゃんの大部分は,異性婚のカップルから生まれます.この看板で言われていることは事実です.その事実の指摘のしかたは,確かに皮肉たっぷりですが.

すると,投稿に対してこのような脅しのコメントが付されました:「生まれつき同性愛者である人はいません.あなたがカトリック信徒で,永遠の命が欲しいなら,LGBT を擁護するのを止めなさい.さもないと,地獄へ直行することになりますよ.」

そして,投稿から数時間後に,投稿者は FB グループ「カトリック」から何の説明も無く除名されました.

驚くべき事態です!カトリック信徒とあろう者が人を呪うとは!

聖パウロは,「あなたたちを迫害する者らを祝福しなさい;祝福するのであって,呪ってはなりません」(Rm 12,14) とすら言っているのに,我々の兄弟姉妹である LGBT の人々に対する不当な差別と侮辱をやめさせようとしている者を呪うのは,まったく非カトリック的です.実際,歴史上,誰それは地獄に落ちたと宣言した教皇はひとりもいません.

また,LGBT の大多数において,性本能の規定性は先天的です.実際,思春期の始まりよりはるか以前に,或る人の性本能がどう規定されているかは,その人の思考や感性において明らかになってきます.

LGBT を差別する人々は,そのような LGBT に関する基本的な事実をすら知ろうともせず,間違った思い込みに執着しています.

「カテキズム」 2358項でもこう述べられています:「同性愛者たちは,自分が同性愛者であるという事情をみづから選んだわけではない」.性本能を有するものとして人間を創造なさったのは,神です.性本能は,神の被造物としての人間の神秘に属することです.

LGBT を差別する人々は,イェスを十字架で処刑した者たちと同じく,「自分たちが何をしているのかを知らない」(Lc 23,34) のです.自分たちと同様に神の似姿として創造された兄弟姉妹たちを祝福することができないということは,神による創造を否定することであり,人類に対する神の恵みを拒否することにほかなりません.

ともあれ,呪いを発した人物がみづから地獄に落ちることのないよう,祈りましょう.

2015年8月18日火曜日

映画「カミングアウト」自主上映会のお知らせ

LGBT カトリック・ジャパンは,映画「カミングアウト」の自主上映会を開催します.

日時は,2015年9月13日(日曜日),13:00 から.

場所は,カトリック本郷教会(〒113-0021 東京都 文京区 本駒込 5-4-3)です.

入場無料ですが,いらっしゃりたい方は事前にメールないし電話で御連絡ください.

連絡先:
小笠原 晋也
e-mail : ogswrs@gmail.com
tel : 090-1650-2207

虹の慈しみのイェス様

イェス様は1931年2月22日,聖ファウスティーナ (1905-1938) に現れ,神の慈しみのイコンを作成するよう指示なさいました.

聖ファウスティーナは日記にこう記しています:

「ある晩,わたしは自分の小部屋のなかで,イェス様を見ました.イェス様は,白いチュニカを着て,一方の手を挙げて祝福し,他方の手は御自分の服の胸のところに触れていました.チュニカの前開きから二本の光線が出ていました.一方は赤色,他方は青白い色でした.(...) イェス様はおっしゃいました:『あなたの見たとおりの絵を描きなさい.そして,そこにこう書き込みなさい:イェス様,わたしはあなたにおすがりします.』」

イェス様を信頼し,イェス様にすがりたいと思う LGBT の人々のために,もとの絵の二本の光線(それは,十字架上でイェス様の胸が槍で刺し貫かれたときに傷口から流れ出た血と水を象徴しています)を LGBT の象徴である六色に修正してみました.虹の慈しみのイェス様です:


イェス様,わたしはあなたにおすがりします.


皆さん,LGBT の人もそうでない人も,どうぞ,このイコンを広めてください.

LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立

LGBT の人々がカトリック教会に抵抗感無く来ることができるようになることを目ざして,ふたりのカトリック信徒,ルカ小笠原晋也(本郷教会所属)とペトロ宮野亨(麹町教会所属)が LGBT カトリック・ジャパン(仮称)を設立します.

周知のように,LGBT は,Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender の頭文字です.すなわち,女性同性愛者,男性同性愛者,両性愛者(自分と同じ性別の者と異なる性別の者とのいずれをも性愛対象として選択し得る者),違性別者(解剖学的または生理学的な規定性における性別ではない sexuality を自身の本来的な sexuality として生きている者)です.

Transgender のなかで,医学的手段によって自身の身体的性別を変更する必要性を強く感ずる人々を,特に transsexual と呼ぶことがあります.

また,狭義の transgender 以外に,性別が解剖学的または生理学的に男女のいづれとも明確に分類され得ない intersex, 男女のいづれとも明確に規定され得ない sexuality を実存的に生きている queer ないし sexual fluidity [性的流動性], さらには,そもそも sexuality の規定性を欠く実存を生きている asexual などの人々もいます.広義における transgender は intersex, queer, asexual などをも含む,と定義されることもできます.

狭義の LGBT 以外のもろもろの sexual minority の人々をも含むという意味で,LGBT+ という表記が sexual minority の多様性を表現するために用いられることもあります.わたしたちは,用語の簡潔性のために,LGBT+ (すなわち,sexual minority 全般)という意味で LGBT という表現を用いたいと思います.

LGBT の定義に関して付言すると,いわゆる pedophilia[小児性愛]の範疇に属する同性愛者は,ここでは LGBT から除外します.なぜなら,pedophilia はまだ思春期に達していない年齢の男児ないし女児を性愛対象とする性倒錯の一種であり,そのような性行為は必然的に反人道的な強姦とならざるを得ないからです.

さて,「カトリック教会のカテキズム」(以下,「カテキズム」と表記)は homosexuality については論じていますが,それ以外の sexual minority には言及していません.特に,自身の身体の性別を変更する必要性を感ずる transsexual の人々の問題はなおざりにされています.

ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.

しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.まず前提は,ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται [信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる].それに対して,神を信ぜずに [ ἀσέβεια ] 偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] は神の怒りを受け,神は彼らを不浄 [ ἀκαθαρσία ] へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.

したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係ではありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,ἀσέβεια ἀδικία の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.

そして,homosexuality そのもは,医学的にも心理学的にも,もはや性倒錯とは見なされていません.

いかにも,性倒錯は精神疾患に属し,また,性倒錯行為の多くは刑罰の対象となります.しかし,現在の医学の標準的な疾病分類においては同性愛そのものはもはや疾患とは見なされておらず,また,世界196ヶ国のうちおもにイスラム教国から成る約80ヶ国を除けば同性愛行為は刑罰の対象でもありません.

我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが ἀσέβεια ἀδικία として断罪するものとは無関係です.

であればこそ,以下に詳しく紹介するように,教皇 Francesco はこうおっしゃいました:「或る homosexual の人が神を求めているなら,わたしはその人を断罪する者ではない」.

ところで,同性愛は如何に生ずるのか?当然ながら,「同性愛者たちは,自分が同性愛者であるという事情をみづから選んだわけではない」(「カテキズム」 2358項.ちなみに,手元の1997年フランス語版にある « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle » という一文は,1992年フランス語版には無く,現在 Vatican Internet site で公開されているラテン語版,フランス語版,英語版,イタリア語版のテクストにもありません.また,手元の2008年第3刷日本語版にもありません.1997年版で新たに付け加えられた文であるのに,書籍として出版されたフランス語版以外のものへは挿入され落とされてしまっているのではないかと思われます).同性愛を非難する「カテキズム」 2357項でさえ,「その心因は大部分,未解明なままである」と認めています.

しかるに,「カテキズム」 2361項は,こう述べています:「性本能 [ sexualitas ] (...) 単純に生物学的なものではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核 [ nucleus intimus ] において人間存在に関わっている」.つまり,或る人が存在論的に「男性である」か「女性である」か,また,性愛において男性に惹かれるか女性に惹かれるかは,単純に性染色体によって規定されることではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核としての性本能がかかわってくる事態です.ところで,性本能を有するものとして人間を創造なさったのは,神です.したがって,性本能は,神の被造物としての人間の神秘に属することです.

LGBT の人々が,性愛において自分の生物学的性別と同じ性別の人に惹かれたり,自分の生物学的性別とは相違する性別を自身の本来的な性別として生きるとき,それは,神がそのように創造なさったのだ,ということにほかなりません.

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者の人々は,彼ら・彼女らの人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者という事情のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている」.

しかし,人生において神の意志を実現するよう呼びかけられており,また,人生の諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられているのは,LGBT の人々だけでなく,すべての人間です.

さて,20138月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica よるインタヴューのなかで教皇 Francesco はこうおっしゃいました : « se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...) Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : “Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ?”. Bisogna sempre considerare la persona. Qui entriamo nel mistero dell’uomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia »[もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしはその人を断罪する者では全然ない.(...) 或る日,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」 それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」 常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない].

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者たちは,敬意と共感と気遣いを以て受け容れられねばならない.彼らに対して不当な差別のしるしをつけるようなことは避けるべきである」.

しかしながら,今の日本のカトリック教会のなかには,LGBT に関する無理解と不当な差別がなおも存続しています.司祭や修道士,修道女のなかにも,一般信徒のなかにも,単純に「同性愛は悪だ」と決めつけたり,世界的に容認されている性別適合手術の必要性を否認したり,「同性愛を治療する」ことを押しつけようとして,LGBT に対して教会の門戸を閉ざしてしまう人々がいます.

神が人間を性本能を有するものとして創造なさった以上,ある人が性的多数派の異性愛者になるか,それとも,性的少数派の LGBT になるかは,その人がみづから選択し得ることではなく,神がお決めになることです.そのような性本能の規定性は,如何なる努力によっても如何なる「治療」によっても,後から人為的に変えることはできません.

LGBT の人々のなかには,自分の性的な問題に悩み,神に救いを求めたいと思っている人が少なくありません.にもかかわらず,カトリック教会内の無理解と拒絶的な雰囲気のせいで,せっかく神に関心を持ち,あるいは既に信仰を持っていても,教会に近づくことができないままでいる そのような LGBT の人々が少なくありません.

日本でも,プロテスタントにおいては,自分が LGBT であることを公表している牧師が幾人かいます.彼らが主催する礼拝には,LGBT カトリック信徒も参加しています.そのような人々にとっては,肩身の狭い思いをせねばならない一般の小教区の御ミサより,自分が素のままでいられる同性愛牧師の礼拝の方が来やすい,しかし,それではカトリックの聖体拝領に与ることができない それが彼ら・彼女らの悩みです.

以上のような現状に鑑み,我々は「LGBT カトリック・ジャパン」の名称のもとに,LGBT の人々が気がねなくカトリック教会に来ることができるようになるよう,活動したいと思います.そのためには,ふたつの課題があります:

ひとつは,LGBT でない聖職者と信徒に対する啓蒙です.LGBT に対する拒絶は,LGBT の問題に関する無理解に基づいていることが少なくありません.ですから,問題の正しい理解を促すことが必要です.また,上に論じたように,一見すると同性愛を断罪しているように読める聖書の言葉を如何に理解すべきか,そして,フランチェスコ教皇も「カテキズム」も,LGBT の人々をカトリック教会に受け容れるよう命じているということ,そのようなことについても広く知らせて行かねばなりません.もし各地の教会から LGBT の問題に関する講演や勉強会などの要請があれば,お引き受けしたいと思います.

もうひとつは,LGBT の人々に対する宣教活動です.カトリック教会は LGBT の人々を拒絶してはいない,カトリック教会において LGBT の人々も神の愛と出会うことができる,ということをもっと知ってもらわねばなりません.また,彼ら・彼女らが性的な問題に関する悩みを相談することができるカトリック教会の窓口,「東京カリタスの家」がある,ということも広報して行きたいと思います.

神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる人を包容します.すべての人々が神の愛に気がつき,神の愛に包まれて生きてゆくことができますように! Amen !