2016年9月23日金曜日

中村吉基牧師さんが主宰する新宿コミュニティ教会の礼拝に参列してきました

9月18日の主日,中村吉基牧師さんに会うために,彼が主宰する新宿コミュニティ教会の礼拝に参列してきました.




先ごろ,彼のインタヴュー記事も発表されています:前編後編

彼に直接会うのは,5月の Tokyo Rainbow Pride 2016 に続いて,二度目です.そのときも,野外礼拝に参列させてもらいました.

新宿コミュニティ教会の礼拝には,誰でも参列することができます.独力で LGBTIQ+ の人々に神の愛の福音を宣言し続ける中村吉基牧師さんを,今後も応援し続けて行きたいと思います.

彼は,説教上手です.毎回,mailing list で送ってもらっています.9月18日の説教を,以下に紹介しましょう:


人間のルールだけでは見えないもの

福音朗読:ルカによる福音書 16章1-13節

1 イエスは,弟子たちにも次のように言われた.「ある金持ちに一人の管理人がいた.この男が主人の財産を無駄使いしていると,告げ口をする者があった.
2 そこで,主人は彼を呼びつけて言った.『お前について聞いていることがあるが,どうなのか.会計の報告を出しなさい.もう管理を任せておくわけにはいかない.』
3 管理人は考えた.『どうしようか.主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている.土を掘る力もないし,物乞いをするのも恥ずかしい.
4 そうだ.こうしよう.管理の仕事をやめさせられても,自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ.』
5 そこで,管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで,まず最初の人に,『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った.
6 『油百バトス』と言うと,管理人は言った.『これがあなたの証文だ.急いで,腰を掛けて,五十バトスと書き直しなさい.』
7 また別の人には,『あなたは,いくら借りがあるのか』と言った.『小麦百コロス』と言うと,管理人は言った.『これがあなたの証文だ.八十コロスと書き直しなさい.』
8 主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた.この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢くふるまっている.9 そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる.
10 ごく小さな事に忠実な者は,大きな事にも忠実である.ごく小さな事に不忠実な者は,大きな事にも不忠実である.
11 だから,不正にまみれた富について忠実でなければ,だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか.
12 また,他人のものについて忠実でなければ,だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか.
13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない.一方を憎んで他方を愛するか,一方に親しんで他方を軽んじるか,どちらかである.あなたがたは,神と富とに仕えることはできない.」


今,日本では,会社ぐるみで商品の欠陥や粉飾決算を隠すことを行った事件のニュースがあとをたちません.思えば私たちは「富に仕える」ために手段を選ばない社会と背中あわせに生きていると言えます.

「驕れるもの久しからず」とは平家物語の一節ですが,イエスさまの弟子たちも,すべてを捨てて従ってきていましたが,そのためどことなく自慢げな,誇らしげなところがありました.しかし,一方でイエスさまの眼から見ればこの弟子たちには,何かが物足りない,何かが抜け落ちている,そのような気持ちでおられました.

その一つは,危機管理の欠如でした.とは言っても設備やハード面のことではなくて,弟子たちの人間性そのものが,イエスさまにそう問われていました.

イエスさまはこの時すでに,ご自分が十字架において亡くなられることを悟っておられました.しかし,そのことはすぐそばで生活をしていた弟子たちにはまったくといっていいほど感じることができませんでした.切羽詰まって危機的な状況にあることを認識していない弟子たちにイエスさまは歯がゆい思いをなさっておられました.そこで,そのような弟子たちに目を覚ましてほしい,そのような思いでこのたとえ話を語ったのです.

さて,このたとえ話の主人公は「管理人」です.大金持ちの主人の大切な財産を管理する仕事をしていた人です.

あるとき,自分の財産が無駄に使われている(あるいは,彼が主人の財産を使いこんでいたかもしれません)ことを知った主人は,突然管理人の解雇を言い渡します.

予期もしないで職を失い,路頭に放り出されたりすることは誰にとっても辛いことです.若い時であればともかく,年を重ねてからの解雇やそれからの職探しは想像を絶するものがあります.

今,日本でも多くの人が職を失っていますが,ピンチに追いこまれた彼の場合はどうだったかというと,なりふり構わずに考えあぐねます.生き残るために考えて考えて,彼が考えたことはとても汚い手口のやり方でした.

「管理人は考えた.『どうしようか.主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている.土を掘る力もないし,物乞いをするのも恥ずかしい. そうだ.こうしよう.管理の仕事をやめさせられても,自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』」.

そう思って,主人に借りのある者たちをひとりひとり自分のところに呼んで,彼は,主人名義になっている借用書を主人にも相談せずに,借りている人がその借財から楽になるように書き換えてしまうのです.たとえば6節の「油100バトス」は半分の「50バトスに」,7節の「小麦100コロス」は「80コロス」という具合です.この場合の単位は地域や時代によって異なりますので,日本風に言えば,「油を100樽」「小麦を100袋」と考えてくださって結構です.

こうして,自分と顔見知りであっただろう主人から借財している人に,この男は恩義を売り,失業したあともこの人たちに助けてもらいながら生き延びていくことをあてこんで,ちゃっかりと手を打つのです.

ところが意外や意外です.主人は彼の不正を怒るどころか,「抜け目ないやり方」だと言ってほめたのです.その大胆さや巧妙さに対してです.

最初にこのたとえ話は不可解だと言いました.誰もがこの主人の態度をすぐには理解できないのじゃないかと思うのです.

イエスさまはこの話を終えてから,この世の子らの賢いふるまいをほめられます.そして弟子たちにも「不正にまみれた富」で友達を作りなさいと言われます.

ここではイエスさまが不正を大目に見ていると思ってしまいがちですが,しかし,そうではなく,この管理人が危機的な状況の中でとった機敏な対応をほめているのであり,私たちが神の国の一員となるために賢くふるまわなければならないと教えられているのです.

イエスさまは,弟子たちやすべての人々がこの世の中で危機的な状況に立たされているということを自覚したならば,一日一日の歩みがもっと真剣になり,その生き方も緊張感を持ったものになるだろうと期待したのです.

では,イエスさまが仰せになった「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とはどういうことでしょうか.

富自体は不正なものではありません.私たちはお金がなければ生活することができないからです.

イエスさまはこう言われました.「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」 (13).

私たち光の子は富に仕えてはなりません.富の奴隷になってはいけないことをイエスさまは言われたのです.そうではなく,私たちは神さまに仕えなければならない.そして,私たちは富を用いて他者と自分たちの生きている社会に奉仕し,貧しく弱くされている人々の友となり,イエスさまが示してくださった愛を実践するように,と今日の福音は招いています.

私たちに与えられている富はどのように用いるのでしょうか.

私たちが富を正しく用いるところに,一人の人間が人間らしく生きる場を回復することでしょう.

「お金は貯めるものではありません.使うものです.」

親にこう言われて育った子どもたちがいました.しかし,これに続く言葉がありました.

「お金は貯めるものではありません.使うものです.世のため,人のために.」

それから子どもたちはお小遣いをもらう度に「お金は貯めるものではありません.使うものです.世のため,人のために」と声を揃えて言いました.

この子どもたちはそれを教えた親の「世のため,人のために」という姿勢が伝わって,何をするにしてもまず世のため人のためにと考えるおとなへと成長していきました.

この家庭の話は実話で,かつて日立教会を牧会されていた藤崎信牧師の言葉です.

この家庭の三番目の子どもは女の子で,「るつ記」さんと言いました.旧約のルツ記から取られたお名前です.

このるつ記さんの祖父も牧師をされていた方で,そのおじいさまの教会と関係があった老人ホームと養護施設で一生涯を日本人のために捧げたドイツ人の女性宣教師であるキュクリッヒ宣教師を,るつ記さんは心から尊敬し,小学生のころから彼女のように外国人のために働きたいと夢を持っていました.特にアジアの人々のためにという祈りを持って日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)でキリスト教社会福祉を学び,休みになるとフィリピン,インド,バングラディッシュなどで奉仕活動をしていました.彼女は大学を卒業し,さらに福祉の学びをするためにフィリピンへ留学をしました.

そのフィリピンで 1983年の春のこと,彼女がボランティアとしてルソン島ボトランの海岸に少女たちを伴って行ったときに,浅瀬で水浴びをしていた数人が急に起こった底流に巻き込まれました.その時に「私をひとりにしないで... 」という悲鳴に,るつ記さんは 2人の少女を助けに海に引き返して,そこで少女にしがみつかれて,3人ともおぼれてしまいました.しばらくして漁師たちに助けられましたが,2人のフィリピン人の少女は命を取りとめることができましたが,るつ記さんは息を吹き返しませんでした.藤崎るつ記さんの 24歳の生涯でした.

当時,一人の日本人の女性がフィリピン人を救うためにいのちを落としたという話は世界中に報道されました.

葬儀を司式したフィリピン聖公会の神学校の学長は次のように式辞を述べました:

「一人のフィリピン人として,私はるつ記さんが多くの日本人とは違った印象を与えてくれたことを指摘したいと思います.年配のフィリピン人は,(日本といえば)日本人兵士とか,『カミカゼ』の印象を持っています.そして今は,たいていのフィリピン人は日本人観光客について思い浮かべるでしょう.これらの日本人に関するイメージは,るつ記さんが示してくれた印象とは異なっています.なぜなら彼女は奉仕をしようとしてここにやって来ましたし,そしてフィリピン人を愛し,フィリピン人の間に多くの友人を得たのですから.私たちは,彼女が自分自身を神への奉仕と同胞のために捧げ,また,彼女の短かった生涯は日本の国民と我々の間の橋渡しと関係を深めるために費やされた,と確信して言うことができましょう.」

その後,彼女の意志を受け継いで「るつ記記念基金」が設けられ,経済的に困難な学生を三十数年間に何人も支援してきました.彼女の足跡はまさに神さまから与えられた富を世のため,人のために使い果たした生涯ではなかったでしょうか.

自分を忘れ,他者に向かう時に,そこには愛の力が働きます.富を自分のために,自分で独り占めにする人は必ず破綻するでしょう.

私たちは,しがらみや身体に取り付いたものに足下をとらわれてなかなか動きだすことが困難になっていないでしょうか.執着心や欲望の数々,なかなかそれを捨てることができません.

そこでイエスさまは言われます:「二人の主人に仕えることはできない」と.

私たちは,目先の利益や欲望のために魂を売り渡してしまってはならないのです.そして,真実に重要なものを軽んじてはいけないでしょう.

大きな神さまの恵みや深いみこころを信じて生きるために,視野の狭い,自己中心的な判断をしてしまいがちな自分に本当に目覚めた心で抵抗していくことが求められています.

しかし,そのことを成し遂げるには私たち自身の力だけではあまりにも無力です.管理人が他人の力を借りて救いの道を切り開いていったように,私たちも,私たちに手を差し伸べてくださる方の力を借りなければならないでしょう.

そのお方がイエス・キリストです.私たちが今日という一日を生きていくための力の源はイエス・キリストから来ます.

十字架にかかり,死に打ち勝ち,復活をされたキリストに私たちが信頼を寄せる時に,おのずと救いの道が開かれてきます.

「神よ/変えることのできるものについて,/それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ.
/変えることのできないものについては,/それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ.
/そして,変えることのできるものと,変えることのできないものとを,/識別する知恵を与えたまえ.」
(ラインホールド・ニーバー)

God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
Courage to change the things I can,
And wisdom to know the difference.
(Reinhold Niebuhr, 1892 - 1971)

祝福がありますように


藤崎るつ記さんのことは,中村吉基牧師さんに初めて教えてもらいました.日本では,カトリック教会のあちらこちらの小教区の御ミサにフィリピン人信徒の方々がたくさん参列し,小教区の生活を活気づけてくれています.これからも,神の愛において彼ら・彼女らとの連帯を大切にして行きたいと思います.

フィリピンの人々はあれだけ大勢日本にいるのですから,なかには LGBTIQ+ の人々もいるはずです.彼ら・彼女らへ LGBT カトリック・ジャパンとしても手を差し伸べて行きたいと思います.

最後に,9月18日はルカ福音書 6,1-13 を二度聴き,ふたつの説教を聴いたので,わたし自身もその一節について考え,解釈を試みました.

ルカ小笠原晋也