2016年10月3日月曜日

教皇 Francesco : LGBTIQ+ の人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添おう

10月02日,二泊三日で Georgia と Azerbaijan を訪問し終えて,Baku から Roma へ帰る途中の機内で,教皇 Francesco は,同行ジャーナリストたちの質問に答えつつ,LGBT について語りました:
https://www.ncronline.org/news/vatican/francis-sexual-morality-determined-case-case-even-transgender

特に注目すべきことに,教皇は初めて,transgenderism をそのものとして話題にしました.

教皇は昨年,或るスペイン人の transgender 男性(女性の身体を以て生まれたが,性別適合手術を受け,戸籍上の性も男性に変更し,今は女性と結婚している)を彼の妻と共に会見のために Vatican に迎えました.その男性は,地元の司教から委任を受けて,教会の活動を積極的に担っています.小教区の司祭も,彼に寄り添っています.

性的少数者の問題は,律法の観点から十把一絡げに扱われるべきではありません.ひとりひとりについて,慈しみを以て,その人を在るがままに受け入れ,その人に寄り添い,その人が主へもっと近づくことができるよう手助けしなければならない.なぜなら,それこそ Jesus がすることだからだ,と教皇は強調します.

Jesus は,LGBT の人々に対して「あっちへ行け」とは決して言いません.Jesus は,誰にでも寄り添ってくださいます.

同じように教皇自身も,実際,司祭として,司教として,LGBT の人々に寄り添ってきました.そして,教皇となった今もそうしています.

それに対して,社会学的な gender theory については,教皇は,使徒的勧告 Amoris laetitia でも展開している批判を繰り返しました.

教皇が gender theory を批判する理由は,それが,神による創造である sexuality を社会学的な人為産物へ還元してしまう,ということに存します.

ですから,LGBT activists が教皇の gender theory 批判を非難するいわれは本当は無いはずです.というのも,もし仮に sexuality が単純に社会学的に規定されているだけなら,いわゆる認知療法のようなしろものによって同性愛も性同一性障害も「治療,矯正」することができるはずだ,ということになってしまいます.しかし,実際にはそんなことはありません.

では,なぜ教皇を非難する LGBT activists がいるのか?それは,彼ら・彼女らが,神による創造としての sexuality の真理を即座に単純に生物学的な性別の事実と同じものと見なしてしまうからです.

ところが,sexuality の真理は生物学的なものではありません.それは,存在論的なものです.

わたしたちは,sexuality について考えるとき,三つのものを区別しなければなりません:ひとつめは生物学的な性 (biological sexes), ふたつめは社会学的な gender (sociological genders), そして第三に存在論的な性別化 (ontological sexuation).

それらを混同するとき,見当違いの議論が生じることになります.

ルカ小笠原晋也