2017年12月24日日曜日

主の御降誕おめでとうございます!(ルカ小笠原晋也)



Charles Le Brun (1619-1690), Nativité (1689), Musée du Louvre


主の御降誕おめでとうございます!

わたしたちの救い主が世に与えられたことの喜びを,あらためて皆さんと分かち合いたいと思います.

今年をふりかえると,LGBTCJ のおもな活動としては,昨年に続き,5月に Tokyo Raibow Pride の祭典に参加しました.また,LGBT 特別ミサを月例行事として継続することができました.主に感謝します.そして,御病気療養中の小宇佐敬二神父様と,8月から LGBT 特別ミサの司式をお引き受けくださっている鈴木伸国神父様に,改めて感謝し,おふたりのために祈りたいと思います.

降誕祭を祝うメッセージにはふさわしくないと思われることを,わたしは,しかし,この機会に是非述べておきたいと思います.

今月,カトリック教会にとっては深刻に反省すべき問題のひとつ,聖職者による児童の性的虐待に関連するニュースが,相次いで報道されました.ひとつは,その問題を隠蔽したことの責任を取って2002年に辞任した前 Boston 大司教 Bernard Law 枢機卿の死去,もうひとつは,Australia でその問題に関する徹底的な調査を行った Royal Commission into Institutional Responses to Child SexualAbuse の最終報告書の発表です.

それらのニュースを聞いたとき,わたしは,『カトリック教会のカテキズム』の2357段と2358段において同性愛について用いられている激しい表現の本当の意味を理解し得たと思いました.

周知のように,2357段ではこう述べられています:「同性愛行為を重大な堕落として提示している聖書に基づいて,伝統は常にこう表明してきた:『同性愛行為は,内在的に乱れたものである』.同性愛行為は,自然の法則に反しており,(...) 如何なる場合も是認され得ない」.また,2358段では,さらに追い打ちをかけるように,「同性愛の傾向は,[同性愛者自身にとってはそうではなくても]客観的には乱れたものである」と述べられています.

非常に激しい,厳しい表現です.そのような表現は,『カテキズム』のなかで,原罪についても大罪 (peccata mortalia) についても用いられていません.にもかかわらず,なぜ同性愛についてはそこまで言うのか?

聖職者による児童の性的虐待の深刻さが改めて明るみに出た今,我々はこう解釈することができます:同性愛断罪の言葉の激しさは,少なからぬ数のカトリック聖職者たちに「内在的」である同性愛に対する「反動形成」の表れである.

おりしも,今月,Milwaukee 大司教区の Gregory Greiten 神父gay であることを come out しました.彼が担当する小教区の信徒たちも,Milwaukee Jerome Listecki 大司教も,彼に対する称賛と支持を表明しました.2015年に come out して司祭職から退いた Krzysztof Charamsa 氏のことも思い返されます.

彼らのように,自身が gay であることを自覚し,それをみづから認め,公にすることができるなら,精神分析家であるわたしの目から見れば,それは健全なことです.彼ら自身も,肩の荷をおろすことができた,と感じています.

問題は,自身が同性愛者であることに明確に気づいていない場合,あるいは,気づいていても,それを否認する場合です.そのような場合,自身に内在的な同性愛に対する反動 (Reaktion) として,激しい同性愛嫌悪 (homophobia) が形成されることがあります.精神分析的に言えば,まったく病理学的な事態です.

ひとつの組織としての Vatican に内在的である同性愛とそれに対する反動形成としての homophobia   それらが,『カテキズム』のなかの同性愛に対する激しい断罪の言葉を動機づけている,と解釈することができます.

Krzysztof Charamsa 氏は,カトリック聖職者の少なからぬ割合が同性愛者である,と言っています.それが事実か否かは,今のところ確かめようがありません.しかし,児童の性的虐待の問題に続いて,同性愛の問題は,改めて真剣に取り組まれるべきことだろうと思われます.

児童の性的虐待は,勿論,根絶されるべきです.それに対して,独身と貞潔を誓う限りにおいて,司祭は同性愛者であってはいけないのか?それは,改めて問うに値する問いだと思われます  独身と貞潔を誓う限りにおいて,司祭は女性であってはいけないのか?さらには,transgender ではいけないのか?queer ではいけないのか?という問いとともに.

今月は,東京大司教区と日本のカトリック教会にとって,とても喜ばしいこともありました.菊地功大司教様の着座です.ガーナで 8 年間の宣教活動を経験なさった菊地大司教様が,キリスト教を拒み続ける日本社会に対して新たな宣教の風を送ることができるよう,わたしたちも少しでもお手伝いしたいと思います.「多様性における一致」をモットーにする菊地大司教様が LGBTQ+ の人々をカトリック教会へ歓迎することに消極的であるはずがない,とわたしたちは期待しています.菊地大司教様のために祈りましょう.

今,ニヒリズムが極みに達した日本社会に最も必要とされるのは,神の愛の福音です.

今の日本政府は,Ge-Stell(科学と資本主義の支配のもとに形成されたニヒリズムの最終形態を,Heidegger はそう呼びます)が人類と地球を蝕み続けることに積極的に加担しています.安倍晋三氏は,全地球的な資本主義の利益追求のために日本社会がどうなろうと,お構いなしです.彼が民族主義的な日本会議イデオロギーの信奉者としてふるまうのは,そのカモフラージュのためにすぎません.日本会議イデオロギーそのものも,ニヒリズムに伴う症状のひとつです.

そのような日本社会の現状のなかで,神の愛の福音を必要としている人々は決して少なくないはずです.むしろ,今こそ福音宣教の好機です.わたしたち信者も,ひとりひとりが宣教者として活動して行くことができますように.

最後に,今年は,queer という語の重要性に改めて気づくことができました.韓国では,LGBTQ の祭典は Queer Culture Festival(クィア文化祭)と呼ばれています.queer は,heterosexual cis-gender men が成す heteronormativity それは,性差別を生むだけでなく,政治的な全体主義の原因でもあります に対する強烈な批判の語であり得ます.

このところ,LGBTQ community の内部対立のようなものをよく見かけます.LGBT という名称のもとに「十把一絡げ」にされることに対する反発,商業主義や heteronormativity に迎合しようとする動きに対する非難,lesbian feminist たちからの gay や transgender woman に対する批判,等々.

しかし,実は,SOGI (sexual orientation and gender identity) に関して heterosexual cis-gender men ではない者は,皆,queer です.LGBT だけではありません.女性は誰しも,queer です.

韓国におけるように,queer という語のもとに,heterosexual cis-gender men phallofascism に対する批判の動きが結集されて行くことができるよう,祈るとともに,今後も活動して行きたいと思います.

改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

LGBTCJ 共同代表,ルカ小笠原晋也