2024年2月29日木曜日

Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼],非典礼的祝福,Ratzinger による区別

2020年09月07日,Papa Francesco は Dicastero per la communicazione[コミュニケーション省]の 幹部を 一般接見に 迎えた (cf. Osservatore Romano). 中央の Papa Francesco 以外の人物は,向かって左から,同省の書記 Lucio Adrián Ruiz, 長官 Paolo Ruffini, 編集部門の長 Andrea Tornielli, Osservatore Romano 紙の 編集長 Andrea Monda.

Vatican News の website に 2024年02月27日付で Andrea Tornielli の 記事 Fiducia supplicans, benedizioni non liturgiche e quella distinzione di Ratzinger が 掲載された.以下は,その邦訳である.

Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼],非典礼的祝福,Ratzinger による区別


2000年に 当時の教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿によって発表された 指示 (istruzione) は,典礼書のなかに含まれている儀式的な〈治癒の〉祈りを,自発的な司牧的祈りから 区別していた.それは,今 イレギュラーなカップルを祝福する可能性を容認するために用いられているのと 同じ 基準である.

Andrea Tornielli

昨年 12月に 教理省によって 公表された 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]は,周知のように,しかも 多くの者たちによって 強調されたように,結婚に関する 伝統的な教義 それは〈互いに配偶者となる男と女[の カップル]に対してのみ〉結婚の祝福を 想定している 変えてはいない.しかして,その文書 それは〈イレギュラーなカップル および 同性どうしにより構成されるカップルに対しても〉自発的にして簡素な祝福 ただし その祝福は そのカップルの関係を祝福することをも 彼らの生活行動を承認ことをも 意義していない の可能性を 容認している によって 深められているのは,祝福の性質である.

実際,Fiducia supplicans は,典礼的 ないし 儀式的 祝福と,自発的 ないし 司牧的 祝福とを,区別している.

前者 典礼的 祝福[複数] については,ふたつの〈それらを理解する〉しかたが ある.[一方には,祝福の]より広い意味が ある;それは,あらゆる〈叙階された聖職者により成された〉祈りを「典礼的」と見なす たとえ それが 儀式的な形なしに あるいは 公式のテクストに忠実に従わずに おこなわれた場合でも.そして[他方には,祝福の]より狭い意味が ある;それによれば[祝福の対象となる]人々に関する 祈り (preghiera) ないし 祈願 (invocazione) は,この場合にのみ「典礼的」である:すなわち,それ[祈り ないし 祈願]が「儀式的に」行われた場合 より正確に言えば,それが〈教会当局によって承認されたテクストにもとづいて〉行われた場合 にのみ[典礼的である].

布告 Fiducia supplicans を批判する者たちのなかには このような者たちが いる:彼らは,事実上,祝福の広い意味のみを正当なものと見なし,それゆえ〈「儀式的」および「典礼的」な 祈り ないし 祝福 と「司牧的」および「自発的」な 祈り ないし 祝福との間の〉区別を 受容し得ないものと 見なす.彼ら[批判者たち]のうちには,たとえば このような者たちが いる 彼らは,こう言って 反論する:典礼も 司牧的な意義を有している.

だが,そのことに関しては,このことに気づくのが 適切である : Fiducia supplicans は「司牧的」という語に 特別な意味を与えている すなわち,その意味とは このことである:祝福の対象となる者たちに寄り添うことを目的とする 特別なケア[という 意味]このような「善き牧者」にならって:善き牧者は〈まいごになった者たちのひとりひとりを見つけるまで〉安心することができない.

また,ほかにも[Fiducia supplicans 批判する者たちのなかには]こう主張する者たちが いる:すべての祈りは「典礼的」であり,それゆえ,すべての祈りは〈教会の典礼のために要請される諸条件に〉服していなければならない.

そのような反論に対しては,Papa Francesco 自身が[2024年]126日の 教理省の全体会議の参加者たちへ向けられた彼の講話のなかで,このことを強調しつつ,答えている:「それらの〈あらゆる《典礼的な特徴を有する》文脈および形式の埒外において成される〉祝福[複数]は,それらを受ける条件として,道徳的な完璧さを要請しない」.そのような教皇の言葉は,ゆえに,〈典礼的な祝福を より狭い意味において 考える 方向性を〉肯定している.

典礼的なものと非典礼的なものとの間の区別に関する ひとつの重要な前例は,これである:それは,2000年に,当時の教理省によって発表された 指示 (istruzione) のなかに 見出される;その指示は,Joseph Ratzinger 枢機卿によって署名され,そして,Giovanni Paolo II によって 承認されている.

その指示の対象は,神から癒やしを得るための祈りである.その文書の 1 部[教義的側面]の セクション 2 において,このことが想起されている:「Rituale Romanum[ローマ儀式書,英訳]の De benedictionibus[祝福について,英訳]のなかに Ordo benedictionis infirmorum[病者の祝福に関する指示,英訳の Blessing of Persons のなかの 11. Blessing of Sick Pilgrims ; 12. Blessing of a Sick Adult ; 13. Blessing of Sick Children 等を参照]があり,そこには,さまざまな〈癒やしを願う〉祈りのテクストがある」.次いで,2000年の〈神から癒やしを得るための祈りに関する〉指示の 2 それは「規律規定」に当てられている Art. 2[第 2 条]は こう述べている:「癒しの祈り[複数]は,もし それらが 教会の所轄当局によって承認された典礼書のなかに掲載されているものであるならば,典礼的 (liturgico) と形容される;そうでない場合は,それらは 非典礼的 (non liturgico) である」.それゆえ,このことが確認される:[一方には]典礼的ないし儀式的な〈癒やしの〉祈りが 存在する;[そして 他方には]ほかの〈癒やしの〉祈りが 存在する;それらは,典礼的ないし儀式的ではないが,それでも 正当に承認されたものである.そして,次の Art. 3[第 3 条]においては,こう述べられている:「典礼的な〈癒やしの〉祈りは,Rituale Romanum Ordo benedictionis infirmorum において 規定されている 儀式にしたがって,そして,そこにおいて指示されている祭服[の着用]を以て,執り行われる」.

以上の〈Ratzinger 枢機卿により署名され,Wojtyla 教皇によって承認されたテクストからの〉引用から[このことが]推論される:如何に〈Fiducia supplicans において,司牧的な祝福とは異なるものとしての 儀式的な祝福を定義するために用いられた〉liturgico[典礼的]という語の意義は,確かに ひとつの展開を表してはいるが,しかし,この数十年間の教会の教えの流れのなかに 挿入されることか.

また,諸々の benedizioni[祝福,称讃]のなかには,ほかの区別も ある:ある種のものは,consacrazioni[聖別,叙階,奉献]を 表し,あるいは,結婚の祝福の場合は,夫婦となるふたりによって祝われる秘跡への押印を 表す;また,ほかの種のものは,下から神へ向かって上昇する懇願の祈りを 表す;さらに ほかの種のもの(esorcismo 場合)は,悪を遠ざけることを目的としている.

Fiducia supplicans くりかえし こう説明している:司祭または助祭に[祝福を求めるために]近づいてくる「イレギュラーな」カップルに 司牧的ないし自発的な祝福を与える 如何なる〈結婚[の秘跡]とまぎらわしい〉要素もなしに ことは,ひとつの〈それら[祝福を求める]ふたりの間の繋がりを承認することの〉形態を 意義しないし,また,如何なる様態においても それを表し得ない.また,Fiducia supplicans こう述べている :[イレギュラーなカップルや同性カップルに与えられる]祝福は「[民法上は]結婚と見なされる[が 教会法上は結婚とは呼べない]繋がり または 婚外の性行為に 何らかのしかたで 道徳的合法性の形を 提供する」ものとは 見なされ得ない.

そうではなく,祝福が意味するところは,神への祈願 神が〈善の種[たね]が《神が欲する方向へ》成長してゆくことを〉可能にしてくれるよう祈る 祈願 という意義である.

2024年2月26日月曜日

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024-02-18 四旬節 第 1 主日(B 年)

L'arche de Noé et le Vaisseau de l'Eglise
un des vitraux de la chapelle de la Communion à l'Église Saint-Étienne-du-Mont de Paris

関根悦雄神父さまの説教,LGBTQ みんなの ミサ,2024年0218日,四旬節 第 主日(B 年)



第 1 朗読 : Gn 9,08-15
見よ,わたしは あなたたちと わが契約を 立てよう.

第 2 朗読 : 1 Pt 3,18-22
水は 今や 洗礼として あなたたちを救う — イェスキリストの復活によって.

福音朗読:マルコ 1,12-15
時は 満了した;そして,神の王国は 近づいた.あなたたちは 回心しなさい;そして,福音を信じなさい.

今,わたしたちは,四旬節を過ごしています.「四旬」は 40 という意味です.つまり,四旬節は 40日です.先週の水曜日は 灰の水曜日でした.今日は 四旬節 1 主日です.ですが,日曜日は 40日のうちに入らないのです.週日は 6 ありますね.それが 6 週間ありますから,6 × 6 = 36. それに,灰の水曜日と そのあとの木金土の 4日間を 足すと,40日になります.

この 40日というのが どこから来たのかというと,今日の福音で こう言われています:「そのとき,霊は イエスを 荒れ野に 送り出した.イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受けた」.ですから,40日間,イエスは 荒れ野で 悪魔から誘惑を受けた;イエスは それに どう答えたか? イエスは試された と考えてもよいでしょう.

また,40 は,イスラエルの民が モーセに率いられて エジプトから出て,40年間 旅をして,約束の地に入った その 40 でもあります.

ですから,この 40  わたしたちがいのちを得るために準備する期間だ,と考えていいと思います.

さて,今日の福音ですが,マルコは「イエスは 40日間 荒れ野にとどまり,サタンから誘惑を受けた」とだけ書いています.それは,マルコの福音の特徴です.マタイの福音と ルカの福音では,イエスは サタンから 三つの誘惑を受け,そして,それに対して彼がどう答えたかが 書かれてあります.しかし,マルコでは,ただ「イエスは 40日間 そこにとどまり,サタンから誘惑を受た」とだけ書かれてあります.

この 40日間は,わたしたちにとって 回心のとき とも言われます.「回心」(μετάνοια) という語は,15節に 出てきます.そこで イエスは こう言います:「時は満ち,神の国は近づいた.悔い改めて,福音を信じなさい」.この「悔い改める」と訳されている動詞 (μετανοέω) 名詞「回心」(μετάνοια) と語源を共有する語です.

昔は「改心」という表記が使われていました.つまり,何か悪いことをしてしまったとか,自分のなかに悪い傾向があるとか,そのようなときには,それを改めなさい ということです.しかし,それは「回心」(μετάνοια) の本来の意味ではありません.では,「回心」とは どういうことでしょうか?

こう自問しましょう:わたしたちは どちらへ向いて 生きているでしょうか? わたしたちは,どうしても,世の中には いろいろ ありますから,あっちへ行ったり こっちへ行ったり,あっちへ向いたり こっちへ向いたり特に,自分中心で生きているのではないでしょうか? そうではなくて,わたしたちは,わたしたちの 神との関係を もう一度 しっかり見つめ直しましょう;そして,もし 神から逸れていたら,神の方へ向きを変えねばなりません;神さまに向かって もう一度 歩み直さねばなりません.そういう意味で,今は「回心」と書きます.

回心は 四旬節に 非常に大切なことだ と言われています;四旬節の間に,わたしたち ひとりひとりが,自分がどのように生きているか,そして,それは 本当に わたしたちに望まれる生き方なのか を,しっかり見直しましょう.

この世のなかに生きていると,誰でも 自分が中心になります.自己中心は,人間の本性に属するのではないか と思います.そして,もうひとつ言えることは,このことです:何か意見の相違や対立があるとき,わたしたちは「自分は正しい;他の人が間違っている」と思いがちです.しかし,本当にそうでしょうか? 神を知らない人は,あるいは,宗教的な感覚がない人は「自分が正しい,それでいいんだ」と思っているように思えます.しかし,わたしたちは,神を知り,そして,神の招きに応えようとして生きています.そこで,あらためて「神はわたしに何を望んでいるのか? 今,わたしは 神の望んでいるように生きているのか?」と問う それが大切なことだ と思います.

では,神は わたしたちに何を望んでいるのでしょうか? それは,わたしたちが本当に生きる ということです.本当に生きる.よりいきいきと生きる.

では,どうすれば 本当に生きることができるのか?

これは,キリスト教の ひとつの神秘かもしれません イエス キリストの生き方に学ぶということ.イエス キリストの生き方に学ぶということは,イエス キリストの生き方に倣う,それをまねる ということです.イエスは どう生きたか? 彼は,徹底的に人に仕え,そして「あなたは 神から愛されている」ということを 人々に伝えました.そして,そのために,彼自身は へりくだって,しもべの姿を取りました;そして,与えに,与えに,与えた.それは,別の言葉で言えば,愛です.ですから,愛を最もたいせつなものとして生きるということ,それが本当に生きるということだ,と イエスは 教えてくださった そう思います.

では,わたしたちは,彼の教えに従って,彼の招きに従って,彼の招きを受けて,それに応えて 生きているかどうか? それを定期的に見直す必要があります.また,本当の生き方 わたしたちを本当に生かす生き方 それを探るのがよいと思います.

わたしたち イエズス会の司祭は,年に 回,黙想をします.そこで,今までの生き方はどうであったのかを振り返り,そして,改めて イエスの招きを聴いて,次はこういうことを 中心にして,だいじにして 生きていこう と決心します.それを皆さんにもお勧めしたいと思います.時間は 必ずしも 4日間も取らなくてもいい と思います.あるときに 真剣に 自分はどこへ向かって生きているのかを,しっかりと考える.

多くの人は,自分のために,自分が何か得るために 生きる と考えてしまいます.しかし,それで本当に幸せになれるのか? 皆さんも いろいろな状況を生きてきただろうと思いますが,その時々のことを思い出して,そのとき「わたしは本当に生きていたか?」と自問してほしいと思います.今までの生涯のなかで,自分が本当に生きていると感じられたのは どういう時なのか?

イエスの生き方は どうであったか? イエスは 自分のすべてを 与えた;いのちをも 与えた.彼は,自分のいのちを与えて,亡くなった;殺された;そして,それでも 生きた.それが 復活です;永遠のいのちを生きることです.

わたしたちも 真剣に「生きる」ということを考えたら,何かわかるんじゃないかな と思います.自分に与えられたものを 人を愛するために 使う それが,わたしたちが招かれている生き方であり,この四旬節の悔い改めのときのひとつの目標になるのではないかな と思います.

具体的に言ってみましょう.四旬節には 断食が勧められます.先週の灰の水曜日には 断食しました.断食といっても,今は,まったく食べないということではなく,ある意味で 簡単です.一日一回は普段と同じように食事してもよいことになっています.しかし,とにかく,みづから飢えるという状況を体験しないと,何を本当に求めるべきなのかということも わからない.そういう意味で断食が勧められます.


そして,教皇フランシスコが言ったとされる
四旬節のための 11の断食のリストが あります:

人を傷つける言葉をやめて,優しい言葉を使いましょう.
悲しみを断って,感謝に満たされるように.
怒りを断って,忍耐で満たされるように.
悲観論を断って,希望に満たされるように.
心配事から離れて,神に信頼するように.
不平不満から離れて,質実 (simplicity) を求めていくように.
圧迫を断って,よく祈るように.
苦々しさから離れて,心を喜びで満たすように.
わがままから離れて,哀れみ深くあるように.
恨みを忘れて,和解するように.
言い争いを避けて,黙して耳を傾けるように.

わたしたちの具体的な日常の歩みのなかで,これはちょっと違うんじゃないかなと気づいたときに,方向転換して,神の方へ向き直り,教皇が勧めていることを目指してゆきましょう.そのような恵みが そのような気づきが たくさんありますように;そして,そのように歩んでゆくことができますように.そのような導きと諭しを 皆さんといっしょに 願いたいと思います.

Padre Saturnino Ochoa の ミサ説教,LGBTQ みんなのミサ,2023-11-19, 年間 第 33 主日(A 年)

Le Christ à cheval de la voûte de la crypte de la Cathédrale Saint-Étienne d'Auxerre

Padre Saturnino Ochoa ミサ説教,LGBTQ みんなのミサ,2023-11-19, 年間 33 主日(A 年)


1 朗読 : Pr 31,10-13.19-20.30-31
2 朗読 : 1 Th 5,01-06
福音朗読 : Mt 25,14-30

今日の福音朗読は「タラントンの譬え」です.典礼暦の一年の終りに,わたしたちは 神さまから 評価されます 神さまから さまざまな「タラントン」をいただいた者として.

日本語で「タレント」と言われるものは,英語の talent から来ています;そして,その英語の talent は,この聖書の箇所の τάλαντον — 複数形は τάλαντα — から来ています.日本語では もっぱら テレビに出ている「タレント」のことですが,英語の talent は「特別な才能や素質」のことです.そして,古代ギリシャ語では 特に ホメロスでは — τάλαντον 金塊の重さの単位(約 25 kg)であり,また,貨幣の単位です「聖書と典礼」の脚注に こう記されているように:

1 タラントンは 6,000 デナリア.1 デナリオンは 労働者の一日の賃金.したがって,1 タラントン(= 6,000 デナリア)は 20 年分の 賃金に 相当する.

ですから,この譬えのしもべたちは,預かった金額が 5 タランタにせよ,2 タランタにせよ,1 タラントンにせよ,三人とも 大金持ちです.タラントンを才能と読みかえるなら,大変な才能の持ちぬしです.

さて,この譬えを もっと展開してみましょう.しもべが もうひとり いるとする;そして,彼は 10 タランタを 主人から 預かったとする.そこで,彼は,まず,1 タラントンを 穀物市場で 活用しようとする;彼は「ヨーロッパの穀倉地帯」と呼ばれる ウクライナで その年に収穫されるはずの小麦の先物取引に 1 タラントン 投資する.ところが,戦争が始まったので,収穫はゼロになり,彼は 投資した 1 タラントンを 失う.次に,彼は,ファミリーレストランの経営を始める;彼は 客がたくさん来るだろうと期待する;ところが,パンデミックのせいで,客は誰も来なくなってしまう;そして,彼の投資は 無駄になってしまう.その後も 彼は いろいろなビジネスを試みるが,すべて 失敗し,主人から預かった金を 全部 失ってしまう.

そして,そのとき 主人が帰ってくる.彼は 何と言うでしょうか ? 彼は,5 タランタを活用したしもべにも 2 タランタを活用したしもべにも こう言います:「よくやった;おまえは 忠実な 良い しもべだ;おまえは 少しのものに忠実であったから,多くのものを管理させよう;主人といっしょに喜んでくれ」.

では,10 タランタを預かり,懸命に努力したが,ビジネスの失敗により,そのすべてを失ってしまった しもべには ? 同じです.5 タランタ あるいは 2 タランタを活用したしもべたちに対して言ったのと同じことを 主人は すべてを失ったしもべにも 言います:「よくやった;おまえは 忠実な 良い しもべだ;おまえは 少しのものに忠実であったから,多くのものを管理させよう;主人といっしょに喜んでくれ」.

そのように,この譬えのポイントは,預けられた金額の大きさではないのです.そうではなく,このことです:わたしたちは,神さまからいただいたものを,どう受けとめて,それを用いて 神さまのために どう働くか.成功するかどうかは 問題ではないのです.だいじなのは,神さまのために忠実に働くことです.

わたしたちは,わたしたちの日常生活のなかで,神さまからいただいたものを それとして 認識し,そして,それを宝と思って 神さまの意志に忠実に 働きましょう.そうすれば,評価のとき 最後の審判のとき 神さまは「よくやった;おまえは 忠実なしもべだ」と ほめてくれるでしょう.そのとき,主とともに 喜びましょう.

2024年2月16日金曜日

NBUS(性の聖書的理解ネットワーク)の言う「聖書的」を 批判する

Aimé Morot (1850-1913) : Le Bon Samaritain[善きサマリア人]

NBUS(性の聖書的理解ネットワーク)の言う「聖書的」を 批判する



NBUS (Network for Biblical Understanding of Sexuality)[性の聖書的理解ネットワーク]に対しては,202207月の その活動の開始の直後から,なかんづく 彼らの〈LGBTQ の人々に対する〉conversion therapy の推奨のゆえに,我々 LGBTQ みんなの ミサも,NBUS を憂慮するキリスト者連絡会の活動への参加によって,批判的姿勢を 明示してきた.しかし,NBUS が賛同する Nashville Statement USA の保守派プロテスタントの一部が sexuality gender の諸問題に関して 2017年に 措定した 諸原則 については,わたしは それを 直接的に議論の対象とはしてこなかったし,ここでもそうするつもりはない;なぜなら このゆえに:その Statement 全体の aprioristic な性格が それを構成する一連の命題をいちいち批判するには値しないものとしている 少なくとも カトリックであるわたしにとっては;というのも,フランシスコ教皇のもとで,カトリック教会は,異端審問にいそしむ神学論議よりも 神の愛と隣人愛にもとづく福音宣教と司牧実践を優先するからである.そして,その際,神学は フランシスコ教皇は 202311月の Motu proprio Ad theologiam promovendam[神学を振興するために]において 強調する 「教会の福音宣教に奉仕する」ものでなければならない;つまり,従来 教会が断罪してきた人々を含む 全世界へ「愛である神による救済の成起を告げ知らせる」ことを促進し得ねばならない.

しかるに,最近,我々の友人たちの SNS 投稿のおかげで,NBUS 20240131日付で発表した短い記事「吉川直美牧師の記事『LGBTQ+ と共に生きる教会』を憂慮する」が わたしの目にも とまった;そこで,わたしは それを読んだ;そして,そこにおいても頻用されている「聖書的」という形容詞に関して,わたしは 改めて こう思った : NBUS の構成員たち および 彼らの活動に賛同ないし共感するクリスチャンたちは,神の意志 それを 神は 聖なる息吹によって 我々に 伝えてくる に準拠しようとはせず,しかして,単純に 聖書の字面に 拘泥している.

はたして,聖書の読み方は それでよいのだろうか? 勿論,否.なぜなら このゆえに:使徒パウロは 我々に こう忠告している (2 Cor 3,06) :

τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει, τὸ δὲ πνεῦμα ζῳοποιεῖ.

なぜなら このゆえに:文字は 殺す;だが,息吹 (πνεῦμα, Spiritus) 生かす[いのちを与える].

すなわち,NBUS の言う「聖書的」という語の隠された意義は「文字は殺す」ということである.実際,保守的クリスチャンたちの「聖書的」な断罪は,LGBTQ の人々を傷つけ,そして,彼らの自殺の誘因となり得る.それに対して,フランシスコ教皇が推奨する〈聖なる息吹に導かれる〉福音宣教と司牧実践 それは あらゆる人を 教会に 包容しようとする は,従来 断罪され,教会から排除されてきた人々にも いのちを与え,彼らを癒す.

そして,聖書の読み方も,聖なる息吹に導かれてこそ,真に有意義なものとなり得る.たとえば,使徒パウロは どう 聖書(旧約の諸テクスト)を 読んでいるか ? 彼は,彼自身 証言しているように (cf. Ac 22,03), 当時 ユダヤ人社会のなかで 非常に 高名であり かつ 尊敬されていた Rabban Gamaliel の足もとで「父たちから伝えられた律法の厳密さにしたがって,教育された」.実際,我々は 感嘆する:如何に パウロが 記憶にもとづいて 自由自在に旧約の諸テクストを引用していることか 新たな信仰の準拠として ! そして,彼は ときとして 驚くべき解釈を 我々に提示する.たとえば,先ほどの引用箇所の少しあとのところで,モーセ 彼の顔は〈彼が 再度 十戒が記された石板を持って YHWH のもとから 降りてきたとき〉神の栄光の反射において 神々しく輝いていた が彼自身の顔をヴェールで覆ったこと (cf. Ex 34,29-35) に関して,パウロは〈モーセの旧約と Jesus の新約とを対比する文脈において〉こう言っている (2 Cor 3:13) :

モーセは,彼自身の顔へ ヴェールを被せていた 止むもの[神の栄光の反射にすぎない〈彼の顔の〉輝き]の終りを イスラエルの息子たちが 見つめることにならないために.

それは,単に聖書の字面を読むだけの者たちにとっては,思いもよらない解釈であろう.だが,それは まさに ユダヤ教のラビたちが如何に聖書を読むかの一例である.彼らは,旧約の諸テクストを読むとき,単に それらの字面を文字どおりに読むのではなく,しかして,それらの文字をとおして,生きている神のことばを すなわち,生きている神が 彼の息吹によって 何を人間たちに伝えようとしているかを 解釈によって 聴き取ろうとする.それが,特に〈西暦 70 年にイェルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されたあとの ユダヤ教において〉よりいっそう発展してゆく Midrash と呼ばれる 聖書解釈学である.Rabban Gamaliel のもとで学んだパウロの聖書の読み方は まさに Midrashic である.

Midrash に関して付言しておくなら,そもそも Jesus Christus 教え 全体も,Torah Midrashic 再解釈である.実際,福音書のなかで しばしば 人々は 彼の弟子たちだけでなく,ファリサイ人たちや律法学者たちも Jesus “Διδάσκαλε” または “Ῥαββί” という呼称を以て 呼びかけている;つまり,彼が Torah 解釈し,教えることができる者であることは,公に認められている.そして,Jesus の教えは,神による全人類の無償の救済の実現 それを可能にするのは〈神が 神自身の息子(すなわち Jesus 自身)を いけにえとして献げることによる〉贖いである という終末論的観点からの〈Tanakh 全体の〉再解釈に 存している.

さて,パウロの 2 コリント書簡に戻って,3 6-18節を〈既に引用した箇所も含めて〉改めて読んでみよう なぜなら その箇所は NBUS の言う「聖書的」に対する批判のために 非常に有意義であるから.

6 彼[神]は,また,我々を〈新約の奉仕者 (διάκονος καινῆς διαθήκης) であることができるように〉してくださった;新約は,文字の契約 (διαθήκη γράμματος) ではなく,しかして,息吹の契約 (διαθήκη πνεύματος) である;なぜなら このゆえに:文字は 殺す;だが,息吹は 生かす[いのちを与える].

7 ところで,もし 石板に文字で刻み込まれた〈死の〉奉仕 (διακονία τοῦ θανάτου ἐν γράμμασιν ἐντετυπωμένη ἐν λίθοις) 栄光あるものとなった イスラエルの息子たちが モーセの顔を〈彼の顔の栄光 ただし それは 止むものである のゆえに〉見つめることができないほどに とすれば,
8 どれほど 息吹の奉仕 (διακονία τοῦ πνεύματος) もっと栄光あるものとならないだろうか?

9 なぜなら このゆえに:もし 断罪の奉仕 (διακονία τῆς κατακρίσεως) 栄光があるならば,正義の奉仕 (διακονία τῆς δικαιοσύνης)[ユダヤ教においては 正義は救済を含意する]は もっと もっと 栄光に満ち溢れる.
10 また,このゆえに:栄光化されたもの[モーセの旧約]は その点に関しては[救済に関しては]栄光化されなかった Jesus 新約の]圧倒的な栄光のゆえに.
11 なぜなら このゆえに:もし 止むもの[モーセの栄光]が 栄光によって 輝いたのであれば,止まないもの[Jesus 栄光]は もっと もっと 栄光において 輝く.

12 それゆえ,そのような希望を有している 我々は,大いに大胆に[主の福音を]語る勇気 (παρρησία) 行使する
13 しかも,モーセが 彼自身の顔へ ヴェールを被せていた 止むもの[神の栄光の反射にすぎない〈彼の顔の〉輝き]の終りを イスラエルの息子たちが 見つめることにならないために ようにではなく.

14 しかして,彼ら[イスラエルの息子たち,特に ファリサイ人たちと律法学者たち]の知能は 鈍化した;なぜなら このゆえに:今日に至るまで[モーセのヴェールと]同じヴェールが[彼らの]旧約の読み (ἀνάγνωσις τῆς παλαιᾶς διαθήκης) に 被さったままとなっている;それ[ヴェール]は 覆うのをやめない なぜなら このゆえに:それが除去されるのは キリストにおいてである.
15 だが,今日に至るまで,彼らがモーセを読むときは いつも,彼らの心のうえには ヴェールが 被さるのだ.

16 だが,もし 彼らの心が主の方へ向き直るならば,そのとき ヴェールは 取り去られる.
17 というのも,主は 息吹である;そして,主の息吹があるところには,自由がある.

18 今や,我々は 皆,顔から覆いを取り去られ,主の栄光を反射して[輝いて]おり,同じ[神の]似姿に変えられている 栄光から栄光へ[止むことなき栄光へ]まさに主の息吹によるように.

何と パウロの〈ファリサイ人たちと律法学者たちに対する〉批判は,NBUS に対しても そっくり そのまま 妥当することか ! 彼らの心を覆っているのは「聖書的」ヴェール すなわち,聖書の字面から成るヴェール である;彼らの「文字の奉仕」は「断罪の奉仕」であり,「死の奉仕」である;なぜなら このゆえに:彼らは〈聖なる息吹が伝える いのちと救済の福音を 聖書の文字をとおして 聴き取ることを〉知らない.

聴きたまえ,「聖書的」という語を以て LGBTQ を断罪する者たちよ あなたたちが神殿を建てるときに その基礎を成しているのは 聖書の字面である.それに対して,我々が神殿を建てるときに その基礎を成すのは Jesus Christus である パウロの勧めにしたがって (cf. 1 Cor 3,11). そして,我々の神殿 我々自身 のなかには,主が 彼の意志を我々に伝えるために 我々に遣わしてくれる 聖なる息吹 我々にいのちを与えてくれる息吹 住まっている (cf. ibid. vv.16-17). それに対して,あなたたちの神殿のなかに収められているのは,石に刻まれた 死せる文字である.

そもそも,主は,「わたしは 何をすることによって 永遠のいのちを受け取ることになるでしょうか?」(Lc 10,25) と問われたとき,どう答えたか?「聖書を もっと 読みなさい」と答えたか? 否,彼は,善きサマリア人の譬えを以て 隣人愛とは如何なるものであるかを示したあと,質問者に こう言う:「行きなさい;そして,あなたも 同様に[隣人愛を]実践しなさい」(v.37).


「聖書的」という語を以て LGBTQ を断罪する者たちよ,あなたたちは 何をしているか ? Carlos Latuff が この cartoon に描いているように,聖書を以て LGBTQ の人々を殴打することである.

それゆえ,我々は,あなたたちに傷つけられた LGBTQ の人々を介抱する 善きサマリア人となることを 欲する.

フランシスコ教皇も,教皇着座からまもない 20130728日のインタヴューのなかで,ある記者の質問に答えて,こう言っている:

Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla?

もし ある人が gay であり,主を探し求めており,そして,善意を有しているとするならば,いったい わたしは その人を断罪するための何者であろうか?

そして,彼は,LGBTQ の人々に対する 彼の包容的な司牧姿勢を その後も一貫して維持している.

教会は〈すべての人間の救済を欲する主の意志 (cf. 1 Tim 2,04) を我々に伝える聖なる息吹によって〉導かれる それが,synodal Church[皆がともに歩む教会]を再構築しようとしているフランシスコ教皇の基本理念である.「教会のなかには みんなのために 居場所がある — みんな,みんな,みんな!— それが 彼の福音宣教と司牧実践の標語である.

では,我々が LGBTQ にかかわることがらに関して 聖なる息吹に祈りつつ 聖書を読み直すなら,主は 我々に どのような inspiration を与えてくれるだろうか? たとえば,保守的クリスチャンたちが gay たちを断罪するために 必ず引用する レヴィ記 18,22 および 20,13 は,何を言わんとしているのか? もし ある gay の人が 現在流布している読み方において そこを読んで 神の救済のメッセージであるはずの聖書の一節を読んで 死にたくなるとすれば,その読み方は まことに 神の意志を読み取ることを可能にしているのだろうか? 否.

聖なる息吹がわたしに与えてくれた ちょっとした inspiration は,こうである : Torah の主体(その存在様態と行動について Torah の諸規定が語っているところの者,Torah の定めに従うよう要請されている者)は,cisgender かつ heterosexual である 男のみである;女性,homosexual 男性 および transgender Torah の主体としては 想定されていない.

実際,レヴィ記で列挙されている〈性関係や性行為に関する〉命令や禁止は すべて 男に向けられている.唯一,女性に向けられているように見えるものは,獣姦の禁止 「女は 性交のために 獣の面前に立つべからず」(18,23) であるが,20,16 においては「性交のために獣に近づく女 おまえ[男]は その女とその獣を殺すべし」と述べられていることが示しているように,その命令が差し向けられている者は やはり 男である.また,Torah のなかには,女性に向かって同性どうしの性行為を禁止している規定は ない.

女性が Torah の主体として想定されていなかったのは,古代ユダヤ人社会では 女性は男性の所有物と見なされていたからである.未婚女性は 彼女の父親の所有物であり,既婚女性は 彼女の夫の所有物であった.レヴィ記において述べられている さまざまな〈性関係や性行為に関する〉命令や禁止の大多数は,ある男がほかの男の女性所有権を侵害することのないよう,措定されている.幾種類もの近親相姦の禁止の規定のなかに 父親による娘に対する近親相姦を禁止する条項が無いのは,父親が自分のだいじな所有物である自分の娘をみづから害することはありえない ということが 前提されていたからであろう.

また,現在 我々が homosexual と呼んでいる人々の存在も,transgender と呼んでいる人々の存在も,古代ユダヤ人社会においては 想定されていなかった.それは,日本国憲法の条文が作成された当時,同性どうしのカップルが結婚するという事態がまったく想定されていなかった 日本においてだけでなく,世界中で ということと 類比的である.

それゆえ,我々が Torah を読むときは,そこにおいて措定されている種々の命令や禁止の暗黙の前提 「おまえは cisgender かつ heterosexual 男である」 を補う必要がある.実際,そうしてみよう:

Lv 18,22
וְאֶת־זָכָר לֹא תִשְׁכַּב מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה תּוֹעֵבָה הִוא

そして,おまえ[男]は,女と寝ること (mishkebe ishshah) 男と寝る (eth zakar thishkab) べからず;それは 忌まわしきことである.

Lv 20,13

וְאִישׁ אֲשֶׁר יִשְׁכַּב אֶת־זָכָר מִשְׁכְּבֵי אִשָּׁה תּוֹעֵבָה עָשׂוּ שְׁנֵיהֶם מוֹת יוּמָתוּ דְּמֵיהֶם בָּם

そして,女と寝ること (mishkebe ishshah) 男と寝る (yishkab eth zakar) (ish) 彼らふたりは 忌まわしきことを 成した;彼らは 死刑に処せられる;彼らの血は 彼ら自身のうえに[ふりかかる つまり,彼らを殺した者が彼らの死の責任を問われることはない].

両節において「寝る」( שָׁכַב : shakab ) という動詞 および それから派生した名詞「寝ること」( מִשְׁכָּב : mishkab ) が「性交する」および「性行為」の意味において 用いられている.そして,名詞 mishkab 動詞 shakab 同族目的語として 用いられている.動詞が同族目的語を取る構文は,ヘブライ語聖書においては しばしば見受けられるものであるが,その修辞学的意義については 研究者の間で意見の一致は見られていないようである(最も一般的な見解は それを「動詞の意味の強調」と見るが,必ずしもそうではない という説も ある).

いずれにせよ,「女と寝ることを 男と寝るべからず」という禁止 —「寝る」を「する」に置き換えるなら:「女とすることを 男とするべからず」— は,暗黙の前提を補うなら,こう言おうとしていることになるだろう:

おまえは,cisgender かつ heterosexual である 男である;おまえの 本来の性的対象は,女である;そのように 本来は女と寝る者である おまえは〈自分の妻も 自分の所有物である女奴隷も 性的対象として 身近にいない という 状況において〉性欲を満足させるために 男を代用の性的対象として 性行為をおこなってはならない.また,異教の神々の神殿にいる神聖男娼と性行為をしてはならない(そもそも,異教の神々の神殿に参ることそのものが 最も重大な律法違反である).また,ギリシャの風習をまねて,未成年の男を性的対象としてもならない.さらに,暴力的な衝動を満足させるために,おまえの所有物である男奴隷や おまえの支配下に置かれている男に対して 性的暴力をふるってもならない.

つまり,レヴィ記の「おまえ[男]は,女と寝ることを 男と寝るべからず」という規定が禁止していることは,ふたりの gay が相互的な愛にもとづいて形成するカップルの関係とはまったく異なる事態である.

Torah homosexuality 禁止しておらず,断罪もしていない なぜなら homosexual である者の存在は 想定されていないから.我々は,いまだに一般的に「同性愛禁止条項」として読まれている レヴィ記の ふたつの節を〈聖なる息吹の導きのもとに〉読み直すことによって,そう結論することができるだろう.