2017年5月9日火曜日

Tokyo Rainbow Pride 2017 に参加して

57日,わたし(ルカ小笠原晋也)は,昨年に続いて,LGBTCJ 共同代表として,幾人かの仲間とともに,Tokyo Rainbow Pride (TRP) の祭典に参加しました.

わたしたちは,小冊子『LGBT とカトリック教義』を配布し,虹色の十字架,虹色のロザリオ,虹色の慈しみのイェス様の絵をあしらった T シャツを販売するための booth を出展し,パレードにも加わりました.





会場では,多くの出会いに恵まれました.今や,教皇 Francesco の指導のもとに,カトリック教会が sexual minority の人々を積極的に教会内へ迎え入れ,神の愛のもとに包容する姿勢を取っている,ということを広く伝えることができた,と思います.

主の恵みに感謝します.そして,とても有意義な機会を提供してくださった主催者の皆さんと共同参加者の皆さん,すべての方々に感謝します.

Tokyo Rainbow Pride のような行事 ‒ 差別されている minority がみづから自身を社会のなかで顕在化し,可視化し,肯定し,受け入れ得る機会 ‒ が,日本中でもっともっと増えて行くよう,祈ります.

さて,homosexuality の違法化と病理化による差別と抑圧に抗議するために1950-60年代に USA で始まった LGBT 人権運動は,feminism とともに,phallofascism(ファロファシズム,ファロスファシズム ‒ 別名 : male totalitarianism, male chauvinism, machismo, 男全体主義,男中心主義)に対する有意義かつ有効な抗議であり得ます.

基本的に heteronormative(heterosexuality を規範とし,それ以外の sexuality の様態を規範に対する違反と見なすこと)かつ家父長主義的な日本社会は,まさに phallofascism が支配的な社会です.そこにおいては「男である」ことが支配者の座にいすわるための必要条件を暗黙裡に成しています. 

なぜ日本社会はかくも差別的であるか?差別,排除,偏見,憎悪,いじめが横行しているのか?性的少数者や女性に対してだけではありません.障碍者,被差別部落,少数民族,労働の機会や生命の安全を求める外国人,等々に対しても非常に差別的であり,排除的です.諸悪の根源は,日本社会に支配的な phallofascism です.家父長主義と heteronormativity は,そこに由来します.

わたしは,TRP のような少数者の自己主張と自己肯定の活動が,差別的な日本社会に対する積極的な抗議であってほしいと思います.ところが,やや残念なことに,TRP の主催者側には,この性的少数者の祭典を社会に対する抗議活動として明瞭に提示することについては,多かれ少なかれ躊躇があるようです.

というのも,或る大手メディアによるインタヴューのなかで,TRP の主催者側の或る人は,「権利を主張すればするほど LGBT の当事者と非当事者が分断されてしまう」と危惧しています.

その人にとっての「理想は,わざわざ come out する必要の無い社会」である ‒ あの根本的に家父長主義的な自民党の LGBT に関する基本方針に述べられているように.

さらに,その人は,同じインタヴューのなかで,LGBT が LGBT として「マーケットになって初めて人権が得られる,という側面はある」とも言っています.つまり,LGBT が LGBT として,資本という支配者によって市場経済のなかに取り込まれてこそ,LGBT は人間扱いされ得る,ということでしょうか...

5月3日付で発表されたそのインタヴュー記事を読んで,わたしは,家父長主義と資本主義が支配的である日本社会のなかで LGBT 人権運動が如何に強い抵抗に直面させられているかを,改めて感ぜずにはいられませんでした.

TRP 2017 は,昨年に比べてますます商業主義的になりました.確かに,催し物やお祭りとしては,非常ににぎわって,大成功でした.しかし,差別される側が差別する側に対して抗議の声を上げる人権運動という本来的な意義は,見えにくくなってしまいました ‒ 同性婚法制化の主張などの動きはあったとはいえ.

「権利を主張すればするほど LGBT の当事者と非当事者が分断されてしまう」というよりは,まことには,「被差別者が正当にも人権を主張すればするほど,差別者はますますひどく被差別者を差別し,排除しようとする」のです.

それが,家父長主義的であるがゆえに必然的に全体主義的である日本社会の悲しい現実です ‒ 学校でのいじめから,少数民族に対する憎悪に満ちた差別に至るまで,幾多の実例が明瞭に示しているとおり.

「マーケットになって初めて人権が得られる」のではありません.人権を与えるのは企業や資本ではありません.

人権は,神の愛し子としての人間の存在の尊厳に基づきます.

あなたが今,生きており,存在しているのは,あなたが神に愛されているからです.神の愛は,誰も排除せず,あらゆる人間を包容 (include) します.それは,神の愛が存在者の存在を可能にするからです.

あなたは神に愛されているからこそ,あなたには人間存在の尊厳がそなわっており,そして,あなたの存在論的尊厳のゆえに,あなたの人権は法的に保証されます.

ところが,日本社会では神の愛はほとんど識られていません.ですから,大多数の日本人は人権の本質を理解することができません.むしろ,「人権」は,所詮,空疎な無意味語にすぎません.実際,裁判官ですら,人権をないがしろにする判決を,しばしば平然とくだしています.

それに対して,例えば USA ではどうか? 2015年6月,同性婚を法的に認めるよう求めた James Obergefell を原告代表とする訴訟において,合衆国最高裁判所は,基本的人権の尊重と法の下の平等により結婚の権利は同性カップルにも保証されている,と判断しました.それによって,USA のすべての州で同性婚は合法化されました

自己決定の権利,自由の権利,法的適正手続の権利,移動の自由の権利,思想の自由の権利,宗教の自由の権利,表現の自由の権利,平和的集会の権利,団体結成の自由の権利,我が子に対する親権行使の権利,privacy の権利,そして,結婚の権利,等々 ‒ それらの基本的人権がアメリカ社会において認められているのは,このことによります:神はあらゆる人間を等しく愛しており,それゆえ,あらゆる人間には等しい存在尊厳が備わっており,それゆえ,法はあらゆる人間に等しく権利を保証する.

自民党が言うような「LGBT come out する必要の無い社会」とは,如何なる社会か?それは,「SOGI (sexual orientation and gender identity) のゆえに差別される者たちが,市場経済のなかで資本の奴隷という存在論的身分において,かつ,日本国籍を有している者に関しては“日本人”という徽章への同一化において,全体主義的日本社会へ同化された」状態です.そのような事態は,真の解放でも真の自由でもありません.

そもそも,「come out する」とは,その本質においては,如何なることか?

come out する」とは,「わたしの存在は,影在的な同一化 (identification imaginaire) へは還元され得ない」ということ,「影在的な同一化が形成する多数者の集合に対して,わたしの本来的な存在は ek-sistent[解脱実存的]である」ということをみづから身を以て証しすることです.

ですから,自身の存在の真理をその解脱実存性において証言することとしての coming out は,sexual minority だけでなく,あらゆる人間に ‒ 我々ひとりひとりに ‒ 課せられた根本的な実存的課題です.

特に,我々キリスト者は日本社会のなかで come out しているか?いまだに「隠れキリシタン」であるにとどまっていないか?

coming out が不必要な社会」ではなく,誰でも come out することが可能であり,そうすることが当り前であるような社会 それこそが実現されるべき社会です.

そのような社会こそが,神の愛にもとづく人間存在ひとりひとりの尊厳が本当に尊重される社会であり,神の愛と隣人愛があまねく実践されている社会でしょう.

わたしたちキリスト者は,そのような社会の実現のために,祈り,そして,あらゆる人へ神の愛の福音を告げ知らせて行きたいと思います.

主よ,家父長主義的・全体主義的な日本社会のなかで差別や排除に苦しみ悲しむ人々にあなたの愛の福音を伝えて行くことができるよう,わたしたちを助けてください.Amen.

ルカ小笠原晋也