2018年4月16日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日(枝の主日)

十字架を担うキリスト,作者不明,1520年ころの作
Museum voor Schone Kunsten (Gent)

しあわせの形と心のつよさ

枝の主日(マルコ 14.1 - 15.47)

枝の主日の朗読は聖金曜日の朗読に似ています。でも,その中心となるモチーフは違うように感じています。

聖金曜日がイエスの苦しみと、その苦しみのうちに顕される神の愛を核とするなら、枝の主日のモチーフはむしろ、この神の愛に向かう人間の様々な態度にあるように思います。

この態度は今日の朗読の中で、また私たちの生活の中で,鮮明にコントラストをなしています。

過越祭をまえにエルサレムは緊張に包まれています。群衆の待望と、為政者たちの奸計と殺意、そしてイエスに従う者たちの不安と恐怖が,渾然とその都市を覆っていました。

群衆の待望は、ユダヤ人をローマの支配から開放してくれる政治的指導者に向けられています。だから入祭の朗読(マルコ 11.1-11)では彼らは棕櫚の枝を振って「新しい王」のエルサレム入城を祝います。

でも,もちろん,この待望ははかないもので、彼らの心は為政者たちにそそのかされて変わります。入場のを祝う歓声は、すぐに福音朗読にある、この新しい王を「十字架につけろ」という叫びに変わってしまします。

枝の主日は,わたしたちに踏み絵を迫るようなコントラストを見せます。

一方では,憎しみと嘲り、恐怖と不安が渦めいています。ペトロとヤコブとヨハネは、血と涙を流して祈るイエスを残して,眠ってしまいます。ユダはイエスを売って、銀を手にします。祭司長たちと最高法院は,偽証をならべ、奸計の枠を狭めてゆきます。そのなかで,兵士たちは、いち早く力あるものの側につき、無実の人にあざけりを向けます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」それを見た祭司長たちは,それをあおるようにあざけります。「他人は救ったのに、自分は救えない。... 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」

他方で,イエスはその間、沈黙のうちに留まります。福音には「何もお答えにならなかった」と記されていますが、その姿は他の朗読箇所がもっと詳しく描いています。イザヤは「主はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった」;「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と語り、パウロは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」したと語ります。イエスは、父なる神の語りに忠実に、自分の道を歩もうとします。

わたしたちは,ユダのようにイエスを売ることはしないでしょうが、苦しみを身に受けようとするイエスに本当に付き従うほどの愛があるのかどうかわかりません。

ピラトはこの二つの力のあいだを漂っています。彼は,かならずしも祭司長たちの言うままに受け取りはせず、イエスにその真偽を確かめようとしています。また,理不尽に見える決定を迂回しようと、囚人の解放を提案してもいます。しかし結局、自分からは何も決めず、促されるままにイエスを兵士たちに差し出します。彼は、人はだれでも死を恐れ、権力に屈するはずだと思っていたのでしょうか。彼は突き動かされ、流され、世の波にのって自分の地位を守ろうとします。


ところで,わたしたちは、毎日の日常のなかで何をもとめているのでしょうか。今日、この聖堂の外には、桜が満開となった最初の日曜日で、お花見の祝祭の雰囲気があふれています。それと対比すれば、この聖堂のなかで祝われている枝の主日は、どこかおどろおどろしいもののようにも見えるでしょう。

人は,誰しもつらさを逃れ、楽しさに惹かれるものですが、そのなかに自分への呼びかけに応える実感と、かみしめるような深い充実が宿っているとは限りません。

Facebook で、Twitter で、Instagram で、人々は「自分は幸せを感じている側の人間だ」と互いに喧伝し、自分にもそう信じ込ませようとしているように見えます。また,ソーシャルメディアの外で顔と顔を合わせて出会う人でさえ、その持ち物で、姿勢で、表情で「わたしは社会的に惨めな者ではない」と語りあってるように見えることもあります。

ひとりひとりがその写真と笑顔の裏に抱えているはずの悩みや辛さ、憧れや希望を、人は誰にも見せないまま、この世を渡り、人生を過ごしてゆくのでしょうか。

わたしには,そんな世の在り方が、自身のうちに不安と妬みを宿しながら、イエスをいけにえに見立てようとして「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と、イエスを責めた祭司長たちの姿に重なって見えます。

確かに,人が自分を見下さず、幸せなものとして見てくれることは,私たちの心を軽くしてくれます。しかし,人の目が、わたしたちが自分のこころの奥に感じるはずの、深い安心や感謝や幸福感を作り与えてくれるわけではありません。

人が受け入れようと、さげすもうとも、イエスのうちに変わらずに響いているのは,「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」(イザヤ)という実感でしょう。

そこを離れては、目に見える幸せも、偽りを映しこんでしまうような素地が、そこにはある気がします。世の人の声に従い、世の人の目に美しく見せようとしても、こころに深く呼びかける神の声をおいては、こころが嘘なしに満たされることもないでしょう。

イエスは、広い門、恐れの唆しに迷わされることなく、人が本当に祝福を抱きしめることのできる道を示してくれています。

怖いからと言って、恐れに聞き従う人の耳には、その声が小さくなるとは言っても、結局,恐れのささやきが残るでしょう。先を進まれるイエスとともに、こころを強くして、祝福の呼びかけに耳を傾け、その方へ進めば、祝福の感覚は,はじめには小さく、人の目にも留まらないにしても、かならずこころの底にゆるがない明るさと暖かさを伝えてくれるものだと思います。

2018年4月2日月曜日

主の御復活おめでとうございます

Anastasis : Jesus raising Adam and Eve by their hands. Behind them stand other biblical characters (John the Baptist, David and Solomon) and righteous kings. Fresco in the Chora Museum, Istanbul.


ご復活に感謝


もしわたしが苦しまなかったら
どうしてイエスさまの苦しみがわかっただろうか
もしイエスさまが苦しまなかったらば
どうして神様の愛がわかっただろうか

二週間ほど前から,この祈りを祈り続けています.

神に感謝.

私の友人の弟が,リマで爆弾テロで負傷して,失明の暗黒状態から多少の明かりを感じるようになりました.

快復を祈り,明後日から九回目のノベナです.朝食の断食と,主の祈り六回を毎日捧げています.

九日間のノベナをいつまで続けるか,主イエスのお言葉を待ちます.

ゲッセマネでの祈りからご復活までが,私の人生の全てです.

ひとつだけ分かち合います.

ペトロが三回イエスを拒んだ後,主は振り向いてペトロを見つめられました[注:ギリシャ語原文では : καὶ στραφεὶς ὁ Κύριος ἐνέβλεψε τῷ Πέτρῳ (Lc 22,61). 動詞 ἐμβλέπειν が「見つめる」です].

NJBNew Jerusalem Bible : ニューエルサレムバイブル)では,

and the Lord turned and looked straight at Peter

と訳されています.

そして,主は,振り返って,ペトロを真っ直ぐ見た.

「真っ直ぐ」という言葉が書かれています.主は,ペトロだけを見つめました.

私は,この straight という言葉だけを黙想して,主に出会いました.私は,その瞳と逢って,「私を創った人の眼だ」と直感しました.

私達一人ひとりを,主イエスは「真っ直ぐ」に見つめています.

ご受難のときの言葉は,七つしかなくて,イエスのお気持ちを私達は想像するしかありません.

「真っ直ぐ」私を見つめたとき,主が何とおっしゃったかを,私は直感しています.それは:

「わたしは,あなたの苦難や貧しさを知っている.だが,本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録 29節).

ペトロ宮野亨

2018年4月1日日曜日

主の御復活おめでとうございます!


Resurrexit sicut dixit, alleluia !

主の御復活おめでとうございます!

改めて強調するまでもありませんが,Jesus の復活は,地上的な生に「生き返る」ことではなく,永遠の命への復活です.かつ,「地獄」からの復活です.

ニケア・コンスタンチノープル信条にはそのくだりはありませんが,使徒信条では,「三日目に死者たちのうちから復活し」の前に,Jesus Christ は「地獄に降りた」と言われています.勿論,公式な日本語訳では「冥府(よみ)にくだり」です.しかし,ラテン語では « descendit ad inferos » です.「地獄」(inferi) という語が確かに使われています.

地獄に関して,数日前にこんなニュースがありました.イタリアの全国紙 La Repubblica の創立者であるジャーナリスト Eugenio Scalfari による Papa Francesco の「インタヴュー」が,0328日付の同紙に掲載されました.そのなかで,教皇は「地獄は存在しない」と言ったことにされていました.それに対して,Vatican の広報室は,翌日すぐさま,そのことを否定する声明を発表しました:教皇は Scalfari を個人的に接見したが,インタヴューを受けたわけではなく,しかも,教皇の言葉として記事に書かれてある文章は,教皇の実際の発言を忠実に再現しておらず,Scalfari 自身の作文にすぎない.

この件を,USA のイエズス会の週刊誌 America も,0329日付で報道しています.

それによると,教皇は,20143月,マフィアに向かって警告して言っています:「犯罪行為をやめて,回心しなさい.さもなければ,あなたたちを待っているのは地獄だ」.

また,20150308日にローマ市内の或る小教区を訪問した際,教皇は,ガールスカウトの少女の質問:「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言っています

あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です. 
では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています. 
しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました:「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」. 
神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから. 
地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です. 
そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです 神との関係を全然欲しがらずに. 
他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う:「主よ!...」. 
その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く. 
イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う:「主よ,わたしを憐れんでください!」. 
すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 
なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです. 
地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです:「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます. 
わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

さすが Papa 様!わかりやすいお話しです.神の愛を信ずる者は,かならず救われ,イェス様といっしょに永遠の命へ復活させていただけます.神の愛は,うらぎりません.

改めて,主の御復活おめでとうございます!よい復活節をおすごしください!

ルカ小笠原晋也

2018年3月26日月曜日

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日


Innocenzo da Petralia (1592-1648), il Crocifisso (1637), nella Chiesa di San Damiano, Assisi
 
聖週間が始まりました.わたしたちが主の受難の悲しみと主の復活の喜びに与ることができるよう,祈りましょう.主よ,あなたは,わたしたち皆の罪を贖うために,わたしたちの身代わりとなって,十字架にかけられ,処刑されました.そして,わたしたち皆が永遠の命に与ることができるよう,死者たちのうちから復活して,わたしたちに命の約束と希望を与えてくださいました.誰をも排除せず,あらゆる者を包容するあなたの愛に感謝します.わたしたちが死の不安を耐え抜くことができるよう,慈しみ深くわたしたちを見守り続けてください.この復活祭の機会に,あなたが Saul を回心へ導いたときのように,差別と暴力を世に広げる者たちにあなたの栄光を顕し,憎しみに蝕まれた彼らの心を癒してください.あなたを識ろうとしない日本社会のなかで,わたしたちが神の愛の福音を宣べ伝えることができるよう,わたしたちを導いてください. 

今月13日,Papa Francesco は,教皇着座五周年を迎えました.彼のために祈りましょう.主よ,使徒ペトロの後継者である Francesco は,律法により断罪することをやめ,愛を以てあらゆる人を神の家へ迎え入れるために精力的に働いています.あなたの忠実なしもべである彼を,祝福してください.彼がカトリック教会からあらゆる差別を廃止するよう,彼を導いてください.彼の教皇座のもとで,より多くの人々が神へ向きなおることができるよう,彼を助けてください.

四旬節第二金曜日(今年は3月2日)は,児童に対する性的虐待の被害者たちのために祈る日でした(日本では,日本カトリック司教団がそのように定めた.国によって異なる).世界中で,歴史的に同性愛を断罪してきたカトリック教会のなかで,実は,聖職者による児童の性的虐待事件が少なからず起きていたという shocking な現実を振り返り,今も心に深い傷を負ったままの被害者たちと,罪深い加害者たちのために祈りましょう.主よ,あなたの愛し子たちのなかに,あなたに仕えるはずの者たちの過ちによって,苦しみ続けている人々がいます.慈しみ深く彼らを癒してください.彼らを傷つけた者たちが,心から罪を悔い改めることができるよう,導いてください.

政令指定都市のうち,札幌市に続いて,福岡市と大阪市で,同性カップルのパートナーシップを認定する制度が始まろうとしています.日本での同性婚法制化のためにいのりましょう.性的指向や性同一性にかかわらず,愛し合うカップルすべてを祝福してくださる主よ,世界では同性婚が法制化された国々が既に30近くあります.日本でも,異性カップルと同等の権利が同性カップルにも認められるようになるよう,人々の心をあなたの愛で満たしてください. 

病気療養を続けていらっしゃる小宇佐敬二神父様のために祈りましょう.あわれみ深い主よ,あなたの忠実なしもべ,小宇佐敬二神父が,病のために苦しんでいます.あなたの愛で彼を支えてください.慈しみ深く彼を癒してください. 

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年02月25日


Raffaello (1483-1520), La Trasfigurazione (1518-1520), nella Pinacoteca vaticana

2018年02月25日(四旬節第二主日)の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様の説教


鉢の花を活け替える

福音朗読:マルコ 9, 2-10

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、 高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

これは「ご変容」と呼ばれる個所です。

ある人の表情や姿が輝いて見える,
ということはないでしょうか。恥ずかしくなってしまうくらいに素直に見つめられて、その印象が心に焼き付いて離れないということはあるかもしれません。弟子たちにはそんな経験だったのではないでしょうか。

今日,わたしには,イエスの眩しいほどに清々しい表情、怖いくらいに吹っ切れた姿が,思い浮かんでいます。

四旬節は「心を新しくしていただく季節」という気がします。四旬節をベランダのプランターの花を植え替えることに喩えた話を,読んだことがあります。四旬節は、春を待つこの季節に、まだ少し残っているかもしれないプランターの中身を、土を出して、掃除をして、新しい土と新しい苗に入れかえて春を準備することに,確かに似ている気がします。新しい命をいただくために、古くなりかけていた自分を脱ぎ捨てて、もう一度新しく自分を始めようとするようなものでしょうか。

ところで,わたしは以前,スマートフォンというものを持っていませんでした.ですから,ゲームをするということを知りませんでした.ある日,知り合いの神父さんがコンピューターでゲームをしているのを見て,「ええ,ゲームなんかするの,この人は」と,思ったことがあります.でも,すごく良い神父さんだったので,「ああそうかなあ」と思い直して,自分もしてみました.たしかに,少しいいものでした。イライラするとき,何をしたらいいか,わからないときには,その隙間を埋めてくれるものです。

でもしばらく,後になって気づいたんですけれど、私は,一つの作業と次の作業の間に考え事をしなくなっていました。ゲームを始める前には「さあ何をしようかな,少し時間があいちゃった,どうしようかな... う~ん... 午前中こんなことがあったな,ああ明日から,今日から...」と,いろんなことを考えていました.空いた時間,わたしはいろんなことを考えていました.午前中あったこと,午後あること,会った人,これから会う人,神様のこと,雑誌に載っていたこと...。それがゲームをするようになってから,その隙間が全部,ゲームに変わってしまった気がしました。

回心というものは,別に,「ああ!悪いことをしました!」と大きな悔い改めをすることばかりではないように思います。もしろん,そういう回心の呼びかけを感じる人は,すぐにしたほうがいいに決まってはいますが.でももっと小さなものでも、自分の心と生活のなかにある余計なもの、もっと自分の命と心が活き活きと動き出すためにすこしじゃまになっているようなものを、心と生活の中から除けるだけのことも、すばらしい回心(別の考え方をすること)だと思います。「これがあれば助けになっているかな」と思って自分のところに残しておいたものでも、もしかしたら「いらないもの」かもしれません。いつか振り返って「ああ本当に良かったな,あのときこれを選んで」って思えるものじゃないものは、捨ててしまっていいと思います.必要なものならきっとまた手に入れようとするはずですから。

私は,今日のイエスの「眩しいほどに清々しい表情」の背後に、イエス様が自分の本当に欲しいものを選び取って、それ以外のものを置いてゆくことに何の未練もなく心を決めることができた出来事があるのを,思います。

今日の福音の直前にあるのは、「わたしは,祭司たちに,人々に,引き渡されて,三日めに死者のうちから復活する」(マルコ 8,31-33)というイェス様の宣言です。ペトロが「そんなことを言ってはいけません」とイエス様を引きとめると,イエスはペトロを「下がれ,サタン」と叫んで、彼を叱り、退けます。

恐れ,ひるみ、また不安へと誘われる心に打ち勝って,イエス様はご自分の道を選び取られます。

自分の進みたい道がはっきりと分かり、それを自分ではっきりと選ぶことができたときの緊張と高揚感、清々しさ、そして神々しさを、わたしは今日の福音のイエスさまの姿のうちに感じているのだと思います。

四旬節は,とても気持ちの良い季節です.ちょっと寂しい季節ですけれども,気持ちの良い季節です.ぜひ,恵みのある四旬節になりますように.

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2018年02月25日


Carl Bloch (1834-1890), Transfiguration of Christ, Hope Gallery, Salt Lake City, USA

四旬節です.主の御復活の喜びに与るための心の準備の期間です.わたしたちをいつも新たな回心へ導いてくださるよう,主に祈りましょう.主よ,あなたは,Papa Francesco が改めて引用したように,過越を迎える二日前,オリーヴ山で弟子たちにこうおっしゃいました:「不公正と悪がはびこり,大多数の者たちの愛は冷え込む」.二千年前のあなたの言葉は,神の愛の福音を拒み続ける日本社会の現状を,正確に描き出しています.慈しみ深い主よ,わたしたちの冷え切った心を,あなたの愛の聖霊であたためてください.祈りと施しと断食によってわたしたちが神の言葉に心をより開くことができるようにしてください.わたしたちが「能動的信徒」としてあなたの愛の福音を他者へ伝えることができるよう,わたしたちを勇気づけてください.


今月11日は,Notre Dame de Lourdes の祝日であり,また,世界病者の日でした.癒しと赦しを願って祈りましょう.主よ,あなたはこうおっしゃいました:「わたしが世に来たのは,健康な者たちのためではなく,病む者たちのためである」.また,こうもおっしゃいました:「義とされるのは,律法によって自己正当化するファリサイ人ではなく,自身を罪人と認め,悔いる徴税人である」.慈しみ深い主よ,わたしたちが自身の病と罪を否認することをやめ,自身を「病む者」,「罪人」と認める勇気を持つことができるよう,わたしたちをあなたの愛で導いてください.あわれみ深くわたしたちを癒し,赦し,救い,あなたの永遠の命に与らせてください.

聖職者による児童の性的虐待のスキャンダルによって,カトリック教会から人々の心が離れ,教皇への不信感も増しています.わたしたちの聖なる教会と,主の忠実なしもべ Papa Francesco と,わたしたちを司牧する司教と司祭たちのために祈りましょう.わたしたちの教会の頭である主よ,あなたのからだであり手足である教会が,あなたの意志に常に忠実であることができるよう,導いてください.信徒の司牧以外にも,さまざまな雑務に追われて,疲れ切っているかもしれない司教や司祭を,あわれみ深く癒してください.特に,聖ペトロの後継者 Papa Francesco を改めて祝福し,カトリック教会をまことにあなたの愛の神殿としようとする彼の改革の努力がより豊か実を結ぶようにしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

共同祈願,2018年01月28日,LGBT 特別ミサ


 Caravaggio (1571-1610), La Conversione di San Paolo (1601),
nella Cappella Cerasi della Basilica di Santa Maria del Popolo a Roma

新たな年の最初の月を迎え,神に感謝して祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,万物を無から創造し,あなたの作品をすべて善きものとして祝福してくださいます.あなたは,わたしたち皆をあなたの似姿として創造し,わたしたちが今あるがままに,わたしたち皆をあなたの愛し子として受け入れてくださいます.わたしたちは,あなたの御わざを賛美し,あなたの愛に感謝します.今年も,わたしたちを慈しみ深く見守ってください.わたしたちが主イェス・キリストにならって生きて行くことができるよう,聖霊の恵みでわたしたちを満たしてください. 

キリスト教徒すべての一致のために祈りましょう.毎年1月18日,初代教皇聖ペトロのローマ司教座の祝日から,25日,聖パウロの回心の祝日までの八日間は,キリスト教徒の一致のために祈る一週間と定められています.今年のテーマは,出エジプト記から取られた言葉:「主よ,力強く輝くあなたの右手は」でした.全宇宙をすべる主よ,力強く輝くあなたの右手によって,わたしたちを無と死と罪から救い出し,永遠の命に与らせてくださることに,感謝します.あなたの愛によって,あらゆる差別と憎しみと暴力をこの世から取り去ってください.わたしたちが,愛と平和のわざを為し,対立と差異の裂け目に橋をかけて,多様性における一致を実現することができるよう,わたしたちを聖霊によって導いてください. 

先日,自身が gay であることを公表した京都府長岡京市の市会議員,小原明大(おはら・あきひろ)さん,および,同様に come out して社会正義のために活動している人々のために祈りましょう.悪をしりぞけ,善をもたらしてくださる主よ,社会において正義と公正を実現するために働く人々すべてを祝福してください.特に,sexual orientation と gender identity に関して差別され,いじめられている子どもたちの救いとなるために,勇気を以て come out して生きている人々に,よりいっそうの祝福を与えてください.彼れらのわざによって,社会に平和の実を豊かに実らせてください. 

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2018年3月15日木曜日

映画 Freedom to Marry を観て


USA で2015年06月に合衆国最高裁判所が「同性カップルにも結婚の権利は認められるべきだ」と判断するに至るまでの同性愛者人権運動の歴史を,特に弁護士 Evan Wolfson 氏と彼が主導した結婚の平等の実現のための社会運動 Freedom to Marry[結婚する自由]に焦点を当てて振り返ったドキュメンタリー映画 Freedom to Marry の上映会と,Wolfson 氏の講演会が,13日晩,LLAN の主催により,日本橋の Bank of America Merrill Lynch 社内のホールで開かれました.



わたしは二年前,Wolfson 氏の初来日のときに彼に会いました.そのときはこの映画はまだ完成されておらず,「楽しみにしていてくれ」と彼は言っていました.

今回の彼の来日のことに関しては,こちらの新聞記事で取り上げられています.

13日の晩は,会場で,我々の友人,文京区議,前田邦博さんにも会いました.

同性婚の問題についてであれ,人権一般の問題についてであれ,日本ではおよそ期待し得ない社会正義の実現の物語を聞くことは,大きな喜びと勇気を我々に与えてくれます.

Evan Wolfson 氏は,1957年に NYC で生まれ,1983年に Harvard Law School で法学博士号を取得しました.その際に提出された学位論文 Samesex Marriage and Morality : The Human Rights Vision of the Constitution[同性婚と道徳:憲法の人権観]において,彼は,同性愛者の結婚の権利を主張する議論を大胆に展開しました.当時,同性愛者のカップルが結婚する可能性について真剣に考えていた者は,USA でもほかに誰もいなかったでしょう.

彼は,結婚の平等のための彼自身の社会運動の出発点を,この1983年に置いています.ですから,2015年に同性婚合法化の成果が得られるまで,32年かかったわけです.そのゴールに向けて,彼はその間,たゆまず努力し続けました.この粘り強さは,実に,敬服に値します.

それを支えるものは,希望です.今,日本人の大多数にとっては,持つことが最も困難なものです.

そして,論理の明晰性です.法のもとでは,あらゆる人間は平等であり,平等に権利を有している.結婚の権利に関しても然り.実に明晰な論理です.

しかし,この法治国家の大原則も,日本社会では実際には通用しません.たとえば,最高裁は,夫婦別姓を認めようとせず,結婚によって姓を変えない権利(男にとっては言うまでもなく認められている権利)を女性には認めようとしません – 法ではなく,家父長主義的イデオロギーを優先するせいで.

Wolfson 氏は,2003年に,結婚の平等を実現するための全国的な社会運動組織 Freedom to Marry を立ち上げます.2015年の最終的な勝利に至るまでのその歴史は,Freedom to Marry のこちらのページに紹介されています.

結婚を男女間に限ろうとする保守派の激しい反対運動に対抗し,先入観にとらわれた世論を草の根のレベルから変えて行く根気づよい努力の物語は,実に感動的です.しかし,果たして日本社会で同様のことは可能だろうか,といつも考え込んでしまいます.

キャンペーンを張ろうとしても,日本会議に代表される保守的イデオロギーに同調する企業の資金力に勝てるはずはない.たとえ今,日本での世論調査では同性婚に賛成する者の方が若干多くても,保守派の大規模な広告作戦によって賛否は簡単に逆転してしまうに違いない.そのとき,果たして,外資系の大企業が日本における同性婚法制化の実現のために資金提供する可能性など,あるのだろうか?...

また,そもそも,日本人社会は「議論する」ということが成り立たない社会です.日本人は,「上」からの命令の言葉を聞くだけで,議論において相手の言葉に耳を傾けようとする態度に欠けているからです.日本の教育制度のみごとな成果です.

日本で世論を同性婚賛成の方へ持って行くには,誰もが知るような有名人が「わたしは同性パートナーと結婚したい」と涙ながらに訴えて,同情を買うしかないのではないか,とわたしは空想しています.

講演の後,結婚の平等のための社会運動と feminism との連携について Wolfson 氏に質問しましたが,両者の連帯は大切であり,当然だ,というような一般論のレベルでの答えしか返ってきませんでした.この問題についてもっと具体的な答えを得るためには,Freedom to Marry の lesbian のメンバーに質問する方が,より適切でしょう.

また,今回は会場が USA の大企業の東京支社のなかにある大ホールであったため,余計にそう思わされましたが,結婚の平等を実現するための社会運動と LGBT の人権を擁護するための社会運動において,結局は respectability politics[社会的差別を解消して行くために,被差別者が差別的な多数派の社会規範のなかで敬意を払われるような社会的地位を獲得することを重要視し,差別者側に被差別者側を受け入れさせることを軽視する考え方]が優先し,LGBTQ+ のなかで経済的に不利な立場に置かれている人々や,既成の社会規範のなかに収まりきらない queer な存在の人々が取り残されてしまうことになるのではないかとの危惧を,改めていだかされました.

カトリック教会が LGBTQ+ の人々に神の愛の福音を伝え,彼れらを教会へ迎え入れるとき,まさに Jesus が手本を示してくださっているように,社会のなかで最も辺縁に追いやられている人々を最優先することを忘れてはならない,と改めて思いました.

ルカ小笠原晋也

2018年3月9日金曜日

LGBT カトリック信者のためのスピリチュアルな気づき





今月 6日に Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の⼈々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に⼊れるように]の増補改訂版が出版されたのに合わせて,James Martin 神父様の新しい動画 Spiritual Insights for LGBT Catholics が発表されました.


そのテクストも,イエズス会の週刊誌 America に掲載されています.

翻訳して,御紹介します:

LGBT カトリック信者たちのためのスピリチュアルな気づき


こんにちは!イエズス会の司祭,ジェームズ・マーチン神父です.『橋を架けよう』の著者です.

この数ヶ月間,わたしは,多数の LGBT カトリック信者から便りをもらいました.信仰や教会内の居場所について葛藤をかかえている人々です.質問のうち最も共通していたのは,カミングアウトに関することです.つまり,自身の性的指向または性同一性の現実を家族や友人と分かち合うことです.多くの人々にとって,若い人でも年配の人でも,カミングアウトは怖ろしい経験であり得ます.特に「教会は または,神様は ,なんだか,わたしのことを嫌いなんじゃないか」と感じている場合は.しかし,カムアウトした後でも,なおも,信仰とも教会とも葛藤が続く場合もあります.

そこで,心にとめておいて欲しい五つのことを挙げましょう.

1. 神は,あなたを愛している.

それは,基本的なことであり,自明なことでさえあるでしょうが,しかし,特に,「わたしは,ほかの人々から愛されていない,受け入れられていない」と感じている LGBT の人々にとっては,重要な気づきです.神は,あなたを創造しました.ですから,神はあなたを愛しています.

「どうしてわかるの?」と,あなたは質問するかもしれません.お答えするなら,まずは,「神はあなたを愛している」は,旧約と新約両方の最も基本的なメッセージのひとつです.旧約は,神がイスラエルの民と結ぶ契約 揺るぎない結びつき の物語です.神は,イスラエルの民を愛しており,わたしたちを愛している ‒ たとえわたしたちが何者であっても.そして,新約は,イェスにおいてわたしたちに愛を示してくださる神について語っています.イェスは,彼の全人生をとおして,人々を愛します.そして,「神はあなたたちを愛している」ということを人々に知らせます.ひとことで言うと,第一ヨハネ書簡が言うとおり,「神は愛である」.

聖書に書かれてあることに付け足すなら,あなたの人生のなかで,あなたを愛し,あなたを受け入れ,あなたのために最善のことを望んでいる人々すべてのことを,思い起こしましょう.彼れらをとおして,神の愛は働いています.ほかにどのようにして神は御業(みわざ)を行うというのでしょう?神は,そのように,あなたを愛しています.

でも,ときとして,こう考える LGBT の人々もいます:「わたしが打ち明けない限りで人々はわたしと仲良くしてくれるが,もしカムアウトすれば,わたしを愛してくれる人は誰もいなくなるだろう」.確かに,多くの場所で,LGBT の人々は,さまざま理由で拒絶されます 恐れのせいで,無知のせいで,偏見のせいで.悲しいことに,ときとして,拒絶が宗教的信念にもとづいている場合さえあります.アメリカ合衆国内でホームレスになっている LGBT の若者たちに関して為されたある研究によると,彼れらが家から追い出された主要な理由は,彼れらの親の宗教的信念でした.しかし,あなたを本当に愛している人々は,ありのままのあなたを受け入れてくれます.そのような愛を見つけるのに時間がかかる場合があるとしても.

今,あなたを愛し,受け入れてくれる人が本当に誰もいないと思われる場合は,あなたの心のなかを見てごらんなさい.たとえば,あなたは,きっと,豊かで充実した人生をおくりたいと望んでいるでしょう.そのような思いはどこから来ると思いますか?神からです.神の声が,あなたを,より自由になるよう,招いているのです.神は,あなたのためにそう望んでいる なぜなら,神はあなたのことを思っているから.

ですから,単にあなたが LGBT であるという理由で「神はあなたを憎んでいる,あなたを拒んでいる,あなたを断罪している」と言うような人々の言葉を聞いてはなりません.それは間違っています.ですから,一瞬たりとも耳を貸すに値しません.かわりに,神のあなたに対するあわれみ深い愛に,あなたの存在を中心づけてください.そして,神の愛のしるしを内でも外でも探してください.

2. 神はあなたを創造した.

もしあなたが LGBT なら,「神はあなたを創造した」はもうひとつの重要な気づきです.声望ある精神科医,心理学者,生物学者なら,誰でも,こう言うでしょう:あなたは,男であるか女であるかをみずから選んで生まれてきたわけではないだけでなく,異性愛者であるか同性愛者であるかをみずから選んで生まれてきたわけでもない.ですから,あなたが性同一性や性的指向に関してどうであるかについてあなたに罪があるかのように思わされないようにしましょう.それは,左利きに生まれたか右利きに生まれたかと同じようなことです.

神は,あなたがあなた自身のことを知るよう望んでおり,あなたがあなた自身の存在を神からのすばらしい贈りものとして受け取るよう望んでいます.詩篇13914-15節が言うように,あなたは「母の胎内で編み上げられ」,「すばらしく作られ」ました.あなたは,すばらしい存在であり,唯一無二の被造物です.ですから,忘れないでください:神はあなたを創造し,あなたのことを知っており,あなたを愛しています.

3. 神は,あなたの味方である.

預言者エレミアは,すばらしい神の言葉を伝えています:「主は,こうおっしゃる:『わたしは,あなたたちについてわたしが立てた計画を知っている.それは,繁栄の計画であり,不幸の計画ではない.わたしは,あなたたちに,未来と希望を与える』」(Jr 29,11).

言い換えると,神はあなたのために善いことを計画しており,あなたの味方です.ときとして,「わたしは人生のなかで孤独だ」というように感ぜられることもあるかもしれません.しかし,あなたを創造した神は,あなたのために最善のことを望んでもいます.そして,神は,それを実現させることを手助けするために働きます.ですから,もしあなたが今,人生は辛いと感ずるなら,思い出してください:あなたは,あなたひとりだけで孤独にボートを漕いでいるわけではありません.誰かが,あなたと共にボートのなかにいて,同じ方向に進むよう漕いでいます.

4. イェスは,あなたのことを思っている.

福音書がわたしたちに示しているように,イェスは,公の宣教活動の間,特に,「わたしは無視され,拒絶され,差別されている」と感ずる人々に手を差し伸べました.何度も何度も,イェスは,取り残されたと感ずる人々のところへまず行きます.彼は話しかけます,当時忌み嫌われていた徴税人に.彼は話しかけます,サマリア人の女性に 当時,それは,ユダヤ人なら絶対しないことでした.彼は話しかけます,ユダヤ人社会に属していないローマ人である百人隊長に.さらに,イェスは,貧しい人々,病気の人々のところに行って,彼れらに話しかけ,彼れらの話を聴き,彼れらを慰め,癒します.イェスは,常に,排除されていると感ずる人々の側に立ちます.

では,今日,どこにイェスはいらっしゃるでしょう?もしあなたが「わたしはアウトサイダーだ」というように感じているなら,彼は特にあなたと共にいます.さらに言えば,多くの場面でイェス御自身がアウトサイダーです.人々はしばしば彼を拒絶しますから.ですから,あなたが経験していることを,彼はよくわかっています.おぼえていてください,イェスは格別な愛であなたのことを思っている,ということを.

また,事態は改善し得る,ということも忘れないでください.イェスの「生と死と復活」の最も重要なメッセージのひとつは,何か新しいものの希望が常にある,ということです たとえ今はそれが見えていなくても.ちょっと考えてみましょう:イェスが十字架にかけられて処刑された直後,弟子たちはどんな気持ちだったか.彼れらはこう思ったでしょう:事は済んでしまった.何も変えられない.しかし,ほんの三日後に起こることは,事態は常に変わり得る,ということを示してくれます.それが,イェスの「死者のうちからの復活」の意味のひとつです.愛は,憎しみよりも強い.希望は,絶望よりも強い.苦しみは,決して最後の言葉ではありません.事態は改善し得るのです.

5. 教会は,あなたの家である.

ごらんなさい,あなたは洗礼を受けています.それは,あなたはまさに教会の一員だ,ということです.あなたは,教皇や司教や司祭やわたしがそうであるのとまったく同等に,教会の一員です.あなたの洗礼のとき,イェス御自身が,教会の一員となるようあなたを呼んだのです.ですから,誰かが「そうではない」とあなたに言ったり,洗礼の秘跡の恵みをあなたから奪い去ることは,許されません.

教会があなたの家であるためには,あるがままのあなたを歓迎し,肯定してくれると感ぜられる小教区を見つけることが,重要です.あなたがそのような小教区を探しているなら,New Ways Ministry が作成した LGBT friendly な小教区のリストを調べてみるとよいでしょう.

しかし,探してみても,歓迎してくれる小教区を地元では見つけることができない LGBT カトリック信者も少なくありません.そのような場合,自身が所属する小教区では歓迎されていない,と感じたままであらざるを得ません.LGBT の人々に対して無神経な言葉,攻撃的な言葉,さらには罵りの言葉をさえ発する司祭や教会役員がいる,という話を,わたしはたくさん聞いてきました.人間が作る組織においてはどこでもそうであるように,冷淡なこと,卑劣なことを言ったりしたりする人がいます.どの職種においても,同じことです.しかし,だからと言って,カトリック教会から立ち去らねばならない,というわけではありません.わたしは,よくこう言います:「ヤブ医者に出くわしたことが一度あるからといって,二度と医者に診てもらわないでいられますか?」.それでも,それはとても辛いことです.よくわかります.

では,歓迎してくれる小教区が見つからないときは,どうすればよいか?その場合は,あなたを歓迎してくれ,「神はあなたを愛している」と断言してくれるスピリチュアルな家庭を探しましょう.しかし,歓迎してくれるカトリック小教区を探すことを,決してあきらめないでください.教会のなかにあなたの居場所があるということを,決して疑わないでください たとえほかの人々にはそのことがわからなくても.わすれないでください,あなたは洗礼を授けられたのだ,ということを.

そして,覚えていてください,あなたは教会にとって重要なのだ,ということを.特に,教会は,LGBT の人々のことをますます知るようになり,あなたたちの経験について反省するよう促されているのですから.神は,あなたを創造し,特別な賜をあなたに与えました.そして,理由あって,神はあなたを教会へ呼び寄せました.言い換えると,教会はあなたを必要としています.

さて,質問全部にお答えすることができなくて,すいません.信仰や教会との葛藤に悩んでいる LGBT カトリック信者からの質問も,LGBT に関することがらについての質問も,とてもたくさんいただいたので.ともあれ,ここで述べた幾つかの省察が何かお役にたてばよい,と望んでいます.そして,なかんずく,忘れないでください,あなたに対する神の愛を.なぜか? 答えを当ててみてください なぜなら,神はあなたを愛しているからです.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2018年2月16日金曜日

「わたしには同性愛者の友だちがいます」論法




人種差別主義者は,自身が行っている差別を正当化したり,それについて弁解したりする際に,このような論法をよく用います:「わたしにはユダヤ人の友だちがいます,わたしには黒人の友だちがいます.ですから,わたしは差別主義者ではありません.しかし,ユダヤ人は,黒人は...[以下,人種差別的な主張]」.

当然ながら,或る者が,被差別グループに属する或る個人を友人にしているからといって,グループとしての被差別者たちに対して差別的でないということにはなりません.

歴史上有名な例は,Adolf Hitler (1889-1945) のユダヤ人医師 Eduard Bloch (1872-1945) に対する敬愛です.Linz の開業医だった Bloch は,貧しい寡婦となっていた Hitler の母が乳癌を患い,1907年に亡くなるまでの間,低料金ないし無料で彼女を治療しました.Hitler はその恩義を忘れず,1938年にオーストリアがドイツに併合された後も,Bloch を特別に保護し,1940年に Bloch USA に亡命することも許可しました.しかし,勿論,Bloch との個人的な関係は,Hitler が冷酷な反ユダヤ主義者であることをまったく妨げませんでした.

「わたしには,被差別グループに属する友人がいます」論法は,LGBTQ-phobia の者たちによっても用いられることがあります:「わたしには同性愛者の友だちがいます,transgender の友だちがいます,ですから,わたしは性的少数者を差別してはいません.しかし,同性愛は,transgender ...

最近,個人的に経験した例を御紹介しましょう.

聖書のなかには,同性愛を断罪するために利用される箇所が幾つかあります.それらは clobber passages と呼ばれます(“clobber” は「激しく殴打して,叩きのめす」という意味の俗語的表現です).例えば,創世記 19,1-29, レビ記 18,22 および 20,13, 申命記 23,18, ローマ書簡 1,26-27, 第一コリント書簡 6,9, 第一ティモテオ書簡 1,10 などです.

しかし,『LGBT とカトリック教義』でも論じたように,それらの箇所において非難されているのは,現在わたしたちが「同性愛」という語によって理解している事態とはまったく異なることです.この解釈は,LGBTQ+ の尊厳と人権を擁護するクリスチャンの間では,今や世界的に共有されています.

ですから,先日,わたしは,Twitter で改めてこう発信しました:

今「同性愛」と呼ばれている事態について,キリスト教の聖書は何も言っていません.聖書が禁止しているのは:性暴力;異教崇拝に属する神聖売買春;他者を単に性欲満足の手段と見なし,そう扱うこと;神や他者との関係において愛を欠くことです.

それに対して,こう反論してきた人がいました:

言ってるとおもいますが... :clobber passages の列挙].聖書の中にはそれに関することが言われているのが事実です.私は同性愛に関しての是非をここで議論するつもりはありません.ただ,聖書中にその記載は存在するようです.

それに対して,わたしはこう答えました:

御指摘の聖書の箇所で論ぜられているのは,今わたしたちが homosexuality と呼んでいる事態ではありません.詳しくは『LGBT とカトリック教義』をお読みください.よろしければ『教皇 Francesco の生と性の神学』もお読みください.

その人は,こう応じてきました:

ご指示いただいた記事を読んできました.仰りたいことは分かりました. 
それから,私は同性愛者の友人がありましたし,同僚にも同性愛者がいました.気が合って,どちらとも仲良くしていました. 同性愛自体にたいする負の感情は全く持っていません.「憎悪の対象」などとんでもない.同性愛者を「憎悪の対象」にしたというキリスト者が神の愛に反していることは確かです. 
[しかし]はじめにも申し上げましたが,「聖書の中にその記述はない」というのは,偽りとはいわずとも,意味がずれてはいませんか.記述はあるのですから,少なくとも「あなた方の考えているような意味とは違うと言いたい」と明確におっしゃったほうが良くはありませんか.あなたが仰りたいのは,同性愛者が異性愛者に断罪されることはキリスト教的に正しい事ではない,と言うのではないのですか?

わたしは,こう応じました:

Papa Francesco がおっしゃっているとおりです : Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla ?[或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?] 
LGBT とカトリック狭義に書いたとおり,Homosexualität 19世紀に作られた用語と概念です.古代には,同性どうしが異性どうしと同様に真摯に愛し合う事態は想定されていません.日本国憲法の制定時に同性婚が想定されていなかったのと同様です.想定されていないものは記述も禁止もされ得ません.

相手は,こう言ってきました:

禁止されているかどうかを論点に置いているのではありません.「聖書中には同性愛に関する記述はない」というあなたのお言葉に対して,私は質問を繰り返しているのです.

以下,相手は,わたしの言葉をまったく聞こうとせず,自分の一方的な主張をさらに続けますが,最後までここに再録する必要はないでしょう.

この人の言い分は,文字どおり,「わたしには同性愛者の友人がいます.わたしは,差別主義者ではありません.しかし,聖書では同性愛は断罪されています」です.LGBTQ-phobic な宗教右翼の論法の好例です.

同様の例は,あちこちで頻繁に見受けられます.また,勿論,聖書の clobber passages をもろに同性愛を断罪するために持ち出してくる人々も,まだまだたくさんいます.

LGBT とカトリック教義』でも論じたように,聖書が禁止しているのは,神の愛も隣人愛もないがしろにして,sexual objectification[性欲対象化:他者を単に性欲満足の手段と見なし,そう扱うこと ; Jesus が「貪欲な目で女を見る者は,それだけで姦淫の罪を犯したのだ」と言うとき,彼が断罪しているのはこの sexual objectification のことだ,と解釈され得ます]に耽り,性暴力をふるうことです.それらは,SOGI (sexual orientation and gender identity) の如何にかかわりなく,罪深いことです.

聖パウロが言っているように,聖書は,わたしたちが愛の聖霊に導かれて読むとき初めて,生きている神の御ことばになります.字面にとらわれた読み方は,律法の文字のもとに,わたしたちから愛と命を奪い去ります.

主よ,あなたの全包容的 (all-inclusive) な愛で,あらゆる差別を無効にし,多様性における一致を実現してください.Amen.

ルカ小笠原晋也

2018年1月18日木曜日

神は同性愛者を創造した.神は同性愛者を同性愛者として創造した.そのことを知るだけで十分だ.


Gustave Doré (1832-1883), Jésus et la femme adultère

2018年01月16日付の New Ways Ministry の news letter で,英国の政治家,Liberal Democrats の前党首 Tim Farron が,2013年に英国における同性婚法制化の際には反対票を投じなかったにもかかわらず,最近,数年前の自身の発言を翻して,同性愛は罪深いと述べたことについて,英国のジャーナリストで,英国カトリック司教協議会のコンサルタントを務めたこともある Clifford LongleyThe Tablet 誌に書いた記事が紹介されていました.その内容がとても良いので,Tim Farron に直接かかわる部分を省略し,一部の代名詞をわたしたちにとってより関連性のあるように変更したうえで,以下にその翻訳を紹介します:


「同性どうしのセックス [ gay sex ] は,罪か?」という問いに対しては,答えはただひとつしかない.教皇 Francesco が与えた答えだ.それは,単純な五つの語からなる : Who am I to judge ?[わたしは,裁くような誰かか?裁く資格がわたしにあるだろうか?否,裁くのは神だけである.そして,神は,裁きと処罰の神ではなく,愛の神である].

ヨハネ福音書 8 章 1-11 節の物語を読み直すよう,勧めたい.姦淫の罪を犯したとして捕えられた女を,律法学者たちとファリサイ人たちが,Jesus の前に連れてくる ‒ 彼を罠にかけるために.[彼らは彼に言う:律法において,モーゼは,姦淫の罪を犯した女を石打ちの刑に処すよう言っているが,あなたは何と言うか?彼は答える:あなたたちのうちで一度も何の罪をも犯したことのない者が,最初に石を投げるがよい.彼らは,最も年長の者たちを先頭に,ひとりひとりその場から立ち去って行った.Jesus は女に言う:あなたを断罪する者は誰もいないのか?女は答える:誰も.そして最後に]Jesus が彼女に言う肝腎な言葉はこれだ:「わたしも,あなたを断罪しない」.

我々は,Westminster 大司教 Basil Hume 枢機卿[1923-1999, 大司教在任期間は 1976-1999]の20年ほど前の言葉を引用することもできる:「愛 ‒ 同性どうしの愛も含めて ‒ が悪であることは,決してない」[おそらく,彼の1997年の文書 A note on the teaching of the Catholic Church concerning homosexuality のなかの言葉のおおざっぱな引用.そこにおいて Basil Hume 枢機卿はこう述べている:同性どうしであれ異性どうしであれ,ふたりの人間の間の愛は,尊いものであり,尊重されるべきある.(...) ふたりの人間が愛し合うとき,彼れらは,天の御国において神とともに生きるときに経験する終わりなき喜びを,この世において限られたさまで経験する.実際,ひとりの他者を愛することは,神へ向けて手を伸ばすことである ‒ そのとき,神は,御自身の「いとおしさ」を,我々が愛する相手に分け与えているのだから.ひとりの他者を愛しているということは,人間が経験し得る最も豊かな経験の領域に入ったということである ‒ その愛が,同性どうしの愛であれ,異性どうしの愛であれ.](...)

神は,同性愛者を創造した.神は,同性愛者を同性愛者として創造した.そのことを知るだけで十分だ.(...)

同性愛者は,あらゆる種類のキリスト教  プロテスタントもカトリックも ‒ の手によって,すべての時代をつうじて,ひどく苦しめられてきた.今,確かなことはこれである:我々は,和解すべきだ.そして,彼れらが感じてきた悲痛な思い,彼れらに対して為されてきた無慈悲なしうち,排除,からかい,憎悪,等々の不正義すべてについて,可能な限り,悔い,償うべきだ.言葉と行いによるあの不正義と偏見を続けることは,重大なまちがいだ.

キリスト教のなかにユダヤ人差別がすべての時代をつうじて存続してきたのと同様に,同性愛者差別が続いてきた.それらふたつの形の偽善的信心深さと迫害を正当化するために,聖書から引用箇所を適当に選び出すことが可能だった.

しかし,ユダヤ人差別も同性愛者差別も,キリスト教(およびユダヤ教)の根本精神に完全に反している.Jesus が「ふたつめの大命令」と呼んだものだ:「あなたの隣人を,あなた自身として愛しなさい」(Mt 22,39). また,Jesus はこうも言っている:「裁くな  裁かれないために」(Mt 7,1). 同性愛の問題については,そう言うだけで十分だ.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2018年1月5日金曜日

transgender と gender-queer を傷つける保守的宗教指導者たちの公開書簡に対して



Albrecht Dürer, Der Sündenfall oder Adam und Eva (1504)


USA のカトリック司教協議会 (United States Conference of Catholic Bishops : USCCB) の web site に,2017年12月15日付で,"Created Male and Female : An Open Letter from Religious Leaders"(男と女に創造された:宗教指導者たちからの公開書簡)と題された文書が公表されています.


そこに署名している20人は,USA のカトリック教会,聖公会,正教会の幾人かの司教と大司教たち,および,幾つかのプロテスタント教派とひとつのイスラム教団体において指導的な立場にあるのだろう人々です.

そこに表明された意見は,同性カップルの結婚の正当性を否定し,単純な性別男女二元論を規範として押しつけ,transgender や gender-queer の存在尊厳を傷つけるものです.保守的な宗教家たちの考えを集約したものと見なしてよいでしょう.

この数十年来 USA において LGBTQ community が自身の人権の主張と擁護のために展開してきた運動の成果に対する保守派の側からの backlash が,今,Trump 政権のもとで,表面化しつつあります.問題の文書も,その動きに属するものと見なし得ます.

それに対して,LGBTQ のために社会正義を擁護する全米的 NPO, National LGBTQ Task Force は,National Religious Leadership Roundtable (NRLR) の名義において,2017年12月22日付で批判声明全文を発表しました.そこに名を連ねた個人と団体の信仰も,カトリック,プロテスタント諸教派からイスラム教に至るまで,さまざまです.

その批判声明においては,今 USA において LGBTQ のなかで最もひどい差別を被っている transgender と gender-queer の擁護が展開されています.

わたし(ルカ小笠原晋也)は,こう考えています:人間においては,「男である」,「女である」,等々は,単純に性染色体によって決定されることではなく,また,単純に社会学的に規定されることでもありません.

特に,transgender や gender-queer の人々にとっては,幼少期から,「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,「わたしは誰なのか,わたしは何者なのか?」という根本的な実存的問いの一部を成しています.

人間において「生きる」ことは,そのような問いを問い続けることに存しています.

そも,神の被造物としての人間存在は,その sexuality も含め,その本質において,神の創造の神秘に属しています.

単純な性別男女二元論を社会規範として押しつけることは,人間存在の神秘について実存的な問いを問い続ける真摯さを圧殺し,できあいの「男らしさ」と「女らしさ」の制服の着用を,当事者の苦痛にもかかわらず,強制することでしかありません.

「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,NRLR の文書のなかでは "gender questioning"[ジェンダーを問うこと]と呼ばれています.そして,そのような問いを問いつつ生きることは,"gender journey"[ジェンダーの旅]と呼ばれています.

人権に関しては日本よりずっと先進的である USA においてさえ,社会は基本的に男女二元論的であり,gender questioning や gender journey について必ずしも寛容ではありません.全米で transgender の人々の 41 % が自殺未遂をしたことがあり,2017年一年間で transgender の人々 27 人が transphobic な憎悪犯罪において殺害された,と NRLR の文書のなかで述べられています.

NRLR は指摘しています:宗教者の役割は,男女二元論的な規範を強制し,そこにそぐわない人々を「性倒錯」と断罪し,病理化して苦しめることに存するのではなく,而して,gender questioning と gender journey のさなかで生きる transgender や gender-queer の人々を,神の愛し子として,彼れらが問う実存的な問いの正当性を尊重しつつ,隣人愛を以て支え,神の愛との出会いへ導くことに存する.

昨年出版された "
Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity"[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の人々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に入れるように]の著者 James Martin 神父様 SJ は,彼の Facebook 記事のなかでこう述べています:

わたしの意見では(わたしはここで専門家として発言するわけではありません),教会が transgender の人々について最も為す必要のあるかもしれないのは,このことです:transgender の人々を愛すること,そして,彼れらの言葉に耳を傾けること.教会も世間も,たいがい,transgender の人々のことをまだよく知りません.彼れらがどのような経験をしているのかをたいして知ってはいません.たとえば,2, 3 ヶ月前,わたしは,ふたりの psychologists に別々の機会に質問しました.transgender の人々と職業的にかかわる経験をしている psychologist たちです.わたしは質問しました:「このところ transgender の人々が増えていることの背景には何があると思いますか?より公に受け入れやすくなったからですか,あるいは,メディアの注目がより増えて,若者たちを『わたしは transgender だ』と自認する方向へいざなっているからですか?」彼れらはふたりとも「見当もつきません」と答えました.(勿論,わたしもです).言い換えるなら,もし psychologist たちでさえこの非常に複雑な現象について確かなことは言えないならば,教会は,まず最初に transgender の人々の経験に耳を傾けることなしに,何か声明を発することについては,慎重であるべきです.では,どうすればよいか?まずは,謙虚になりましょう.そして,この transgender の現象についてもっと多くのことを学ぶ必要がある,ということを認めましょう.第二に,transgender の人々に質問しましょう:あなたはどのような経験をしていますか?どのように苦しんできましたか?あなたにとって神は何者ですか?そして,第三に,このことを忘れないでおきましょう:世の中で生きる道を探し求めようとしている transgender の人々のうちには聖霊が働いている,ということを.ですから,彼れらを愛しましょう.そして,彼れらの言葉に耳を傾けましょう.

わたしたちも,そうして行きたいと思います.

現代社会において,性別男女二元論はいまだに社会規範を成しています.そこからはずれる transgender や gender-queer の人々が顕在化させる差異の裂け目は,規範のなかで生きている者たちを不安にさせます.その不安に耐えることができない者たちは,規範外の人々を差別し,排除し,迫害します.あるいは,規範に従うことを無理強いします.

特に日本社会では,性別に関すること以外でも,さまざまなことがらに関して,そのような差別と排除と迫害と強制が日常的に生じ続けています.

差異の裂け目を覆い隠してごまかそうとするのではなく,差異を差異として保ったまま,差異の裂け目によって隔てられた一方と他方とを,両者が単なる決別や決裂に陥らないように,両者の間に橋を架け,つなぐことを可能にするもの,それは,愛です.神の愛と,それにもとづく隣人愛です.

神の愛と,それにもとづく隣人愛と:日本社会に決定的に欠けているものです.そのことが,日本社会の不安に対する耐性の低さを規定しています.日本社会が不寛容である所以です.

しかし,だからこそ,神の愛の福音は,今,日本社会が最も必要としているものであるはずです.それを待つ耳がたくさんいるはずです.福音を宣べ伝える機は熟しています.

他方,LGBTQ+ の側からカトリック教会へ自分たちの実際の経験を語り伝える試みも期待したいと思います.以前にも一度,そのような呼びかけをしたことがありました.今年は,より多くの人々の声が教会へ伝わるよう,LGBTCJ としても努力して行きたいと思います.

ルカ小笠原晋也

参考:

注:「彼」,「彼ら」ではなく,「彼れ」,「彼れら」と表記するとき,それらを gender neutral な代名詞として用いています.