2018年1月18日木曜日

神は同性愛者を創造した.神は同性愛者を同性愛者として創造した.そのことを知るだけで十分だ.


Gustave Doré (1832-1883), Jésus et la femme adultère

2018年01月16日付の New Ways Ministry の news letter で,英国の政治家,Liberal Democrats の前党首 Tim Farron が,最近,数年前の自身の発言を翻して,同性愛は罪深いと述べたことについて,英国のジャーナリストで,英国カトリック司教協議会のコンサルタントを務めたこともある Clifford LongleyThe Tablet 誌に書いた記事が紹介されていました.その内容がとても良いので,Tim Farron に直接かかわる部分を省略し,一部の代名詞をわたしたちにとってより関連性のあるように変更したうえで,以下にその翻訳を紹介します:


「同性どうしのセックス [ gay sex ] は,罪か?」という問いに対しては,答えはただひとつしかない.教皇 Francesco が与えた答えだ.それは,単純な五つの語からなる : Who am I to judge ?[わたしは,裁くような誰かか?裁く資格がわたしにあるだろうか?否,裁くのは神だけである.そして,神は,裁きと処罰の神ではなく,愛の神である].

ヨハネ福音書 8 章 1-11 節の物語を読み直すよう,勧めたい.姦淫の罪を犯したとして捕えられた女を,律法学者たちとファリサイ人たちが,Jesus の前に連れてくる ‒ 彼を罠にかけるために.[彼らは彼に言う:律法において,モーゼは,姦淫の罪を犯した女を石打ちの刑に処すよう言っているが,あなたは何と言うか?彼は答える:あなたたちのうちで一度も何の罪をも犯したことのない者が,最初に石を投げるがよい.彼らは,最も年長の者たちを先頭に,ひとりひとりその場から立ち去って行った.Jesus は女に言う:あなたを断罪する者は誰もいないのか?女は答える:誰も.そして最後に]Jesus が彼女に言う肝腎な言葉はこれだ:「わたしも,あなたを断罪しない」.

我々は,Westminster 大司教 Basil Hume 枢機卿[1923-1999, 大司教在任期間は 1976-1999]の20年ほど前の言葉を引用することもできる:「愛 ‒ 同性どうしの愛も含めて ‒ が悪であることは,決してない」[おそらく,彼の1997年の文書 A note on the teaching of the Catholic Church concerning homosexuality のなかの言葉のおおざっぱな引用.そこにおいて Basil Hume 枢機卿はこう述べている:同性どうしであれ異性どうしであれ,ふたりの人間の間の愛は,尊いものであり,尊重されるべきある.(...) ふたりの人間が愛し合うとき,彼れらは,天の御国において神とともに生きるときに経験する終わりなき喜びを,この世において限られたさまで経験する.実際,ひとりの他者を愛することは,神へ向けて手を伸ばすことである ‒ そのとき,神は,御自身の「いとおしさ」を,我々が愛する相手に分け与えているのだから.ひとりの他者を愛しているということは,人間が経験し得る最も豊かな経験の領域に入ったということである ‒ その愛が,同性どうしの愛であれ,異性どうしの愛であれ.](...)

神は,同性愛者を創造した.神は,同性愛者を同性愛者として創造した.そのことを知るだけで十分だ.(...)

同性愛者は,あらゆる種類のキリスト教  プロテスタントもカトリックも ‒ の手によって,すべての時代をつうじて,ひどく苦しめられてきた.今,確かなことはこれである:我々は,和解すべきだ.そして,彼れらが感じてきた悲痛な思い,彼れらに対して為されてきた無慈悲なしうち,排除,からかい,憎悪,等々の不正義すべてについて,可能な限り,悔い,償うべきだ.言葉と行いによるあの不正義と偏見を続けることは,重大なまちがいだ.

キリスト教のなかにユダヤ人差別がすべての時代をつうじて存続してきたのと同様に,同性愛者差別が続いてきた.それらふたつの形の偽善的信心深さと迫害を正当化するために,聖書から引用箇所を適当に選び出すことが可能だった.

しかし,ユダヤ人差別も同性愛者差別も,キリスト教(およびユダヤ教)の根本精神に完全に反している.Jesus が「ふたつめの大命令」と呼んだものだ:「あなたの隣人を,あなた自身として愛しなさい」(Mt 22,39). また,Jesus はこうも言っている:「裁くな  裁かれないために」(Mt 7,1). 同性愛の問題については,そう言うだけで十分だ.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2018年1月5日金曜日

transgender と gender-queer を傷つける保守的宗教指導者たちの公開書簡に対して



Albrecht Dürer, Der Sündenfall oder Adam und Eva (1504)


USA のカトリック司教協議会 (United States Conference of Catholic Bishops : USCCB) の web site に,2017年12月15日付で,"Created Male and Female : An Open Letter from Religious Leaders"(男と女に創造された:宗教指導者たちからの公開書簡)と題された文書が公表されています.


そこに署名している20人は,USA のカトリック教会,聖公会,正教会の幾人かの司教と大司教たち,および,幾つかのプロテスタント教派とひとつのイスラム教団体において指導的な立場にあるのだろう人々です.

そこに表明された意見は,同性カップルの結婚の正当性を否定し,単純な性別男女二元論を規範として押しつけ,transgender や gender-queer の存在尊厳を傷つけるものです.保守的な宗教家たちの考えを集約したものと見なしてよいでしょう.

この数十年来 USA において LGBTQ community が自身の人権の主張と擁護のために展開してきた運動の成果に対する保守派の側からの backlash が,今,Trump 政権のもとで,表面化しつつあります.問題の文書も,その動きに属するものと見なし得ます.

それに対して,LGBTQ のために社会正義を擁護する全米的 NPO, National LGBTQ Task Force は,National Religious Leadership Roundtable (NRLR) の名義において,2017年12月22日付で批判声明全文を発表しました.そこに名を連ねた個人と団体の信仰も,カトリック,プロテスタント諸教派からイスラム教に至るまで,さまざまです.

その批判声明においては,今 USA において LGBTQ のなかで最もひどい差別を被っている transgender と gender-queer の擁護が展開されています.

わたし(ルカ小笠原晋也)は,こう考えています:人間においては,「男である」,「女である」,等々は,単純に性染色体によって決定されることではなく,また,単純に社会学的に規定されることでもありません.

特に,transgender や gender-queer の人々にとっては,幼少期から,「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,「わたしは誰なのか,わたしは何者なのか?」という根本的な実存的問いの一部を成しています.

人間において「生きる」ことは,そのような問いを問い続けることに存しています.

そも,神の被造物としての人間存在は,その sexuality も含め,その本質において,神の創造の神秘に属しています.

単純な性別男女二元論を社会規範として押しつけることは,人間存在の神秘について実存的な問いを問い続ける真摯さを圧殺し,できあいの「男らしさ」と「女らしさ」の制服の着用を,当事者の苦痛にもかかわらず,強制することでしかありません.

「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,NRLR の文書のなかでは "gender questioning"[ジェンダーを問うこと]と呼ばれています.そして,そのような問いを問いつつ生きることは,"gender journey"[ジェンダーの旅]と呼ばれています.

人権に関しては日本よりずっと先進的である USA においてさえ,社会は基本的に男女二元論的であり,gender questioning や gender journey について必ずしも寛容ではありません.全米で transgender の人々の 41 % が自殺未遂をしたことがあり,2017年一年間で transgender の人々 27 人が transphobic な憎悪犯罪において殺害された,と NRLR の文書のなかで述べられています.

NRLR は指摘しています:宗教者の役割は,男女二元論的な規範を強制し,そこにそぐわない人々を「性倒錯」と断罪し,病理化して苦しめることに存するのではなく,而して,gender questioning と gender journey のさなかで生きる transgender や gender-queer の人々を,神の愛し子として,彼れらが問う実存的な問いの正当性を尊重しつつ,隣人愛を以て支え,神の愛との出会いへ導くことに存する.

昨年出版された "
Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity"[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の人々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に入れるように]の著者 James Martin 神父様 SJ は,彼の Facebook 記事のなかでこう述べています:

わたしの意見では(わたしはここで専門家として発言するわけではありません),教会が transgender の人々について最も為す必要のあるかもしれないのは,このことです:transgender の人々を愛すること,そして,彼れらの言葉に耳を傾けること.教会も世間も,たいがい,transgender の人々のことをまだよく知りません.彼れらがどのような経験をしているのかをたいして知ってはいません.たとえば,2, 3 ヶ月前,わたしは,ふたりの psychologists に別々の機会に質問しました.transgender の人々と職業的にかかわる経験をしている psychologist たちです.わたしは質問しました:「このところ transgender の人々が増えていることの背景には何があると思いますか?より公に受け入れやすくなったからですか,あるいは,メディアの注目がより増えて,若者たちを『わたしは transgender だ』と自認する方向へいざなっているからですか?」彼れらはふたりとも「見当もつきません」と答えました.(勿論,わたしもです).言い換えるなら,もし psychologist たちでさえこの非常に複雑な現象について確かなことは言えないならば,教会は,まず最初に transgender の人々の経験に耳を傾けることなしに,何か声明を発することについては,慎重であるべきです.では,どうすればよいか?まずは,謙虚になりましょう.そして,この transgender の現象についてもっと多くのことを学ぶ必要がある,ということを認めましょう.第二に,transgender の人々に質問しましょう:あなたはどのような経験をしていますか?どのように苦しんできましたか?あなたにとって神は何者ですか?そして,第三に,このことを忘れないでおきましょう:世の中で生きる道を探し求めようとしている transgender の人々のうちには聖霊が働いている,ということを.ですから,彼れらを愛しましょう.そして,彼れらの言葉に耳を傾けましょう.

わたしたちも,そうして行きたいと思います.

現代社会において,性別男女二元論はいまだに社会規範を成しています.そこからはずれる transgender や gender-queer の人々が顕在化させる差異の裂け目は,規範のなかで生きている者たちを不安にさせます.その不安に耐えることができない者たちは,規範外の人々を差別し,排除し,迫害します.あるいは,規範に従うことを無理強いします.

特に日本社会では,性別に関すること以外でも,さまざまなことがらに関して,そのような差別と排除と迫害と強制が日常的に生じ続けています.

差異の裂け目を覆い隠してごまかそうとするのではなく,差異を差異として保ったまま,差異の裂け目によって隔てられた一方と他方とを,両者が単なる決別や決裂に陥らないように,両者の間に橋を架け,つなぐことを可能にするもの,それは,愛です.神の愛と,それにもとづく隣人愛です.

神の愛と,それにもとづく隣人愛と:日本社会に決定的に欠けているものです.そのことが,日本社会の不安に対する耐性の低さを規定しています.日本社会が不寛容である所以です.

しかし,だからこそ,神の愛の福音は,今,日本社会が最も必要としているものであるはずです.それを待つ耳がたくさんいるはずです.福音を宣べ伝える機は熟しています.

他方,LGBTQ+ の側からカトリック教会へ自分たちの実際の経験を語り伝える試みも期待したいと思います.以前にも一度,そのような呼びかけをしたことがありました.今年は,より多くの人々の声が教会へ伝わるよう,LGBTCJ としても努力して行きたいと思います.

ルカ小笠原晋也

参考:

注:「彼」,「彼ら」ではなく,「彼れ」,「彼れら」と表記するとき,それらを gender neutral な代名詞として用いています.

2018年1月2日火曜日

Come out of the closet !



Ave Maria, gratia plena ! Dominus tecum.
Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus nunc et in hora mortis nostrae.
Amen.


新年明けましておめでとうございます!

御存じのように,元旦は,1968年に,福者教皇 Paolo VI(今年,列聖される見込み)によって「世界平和の日」[ Giornata mondiale della pace ] と定められました.

2018年の平和のために皆さんと祈りを分かち合いたいと思います.

元旦の御ミサに与れなかった方々のために,第一朗読の主の祝福のことば(民数記 6,24-27)を引用します:


主があなたを祝福し,守ってくださいますように!
主があなたに向けて御顔を輝かせ[意味:微笑む御顔をあなたに見せ],恵みを与えてくださいますように!
主があなたに向けて御顔を上げ[意味:慈しみ深くあなたをまなざし],平和を与えてくださいますように!

教皇 Francesco は,戦争の悲惨さを告発し,平和の必要性を強調するために,年末,この写真をカードにして配布するよう,教皇庁の報道局に要請しました:



カードの裏には,"... il frutto della guerra"[... 戦争がもたらすもの]と記され,教皇のサインが付されています.


さらに,スペイン語でこう説明されています:
Un niño que espera su turno en el crematorio para su hermano muerto en su espalda. Es la foto que tomó un fotógrafo americano Joseph Roger O’Donnell después de el bombardeo atómico en Nagasaki. La tristeza del niño sólo se expresa en sus labios mordidos y rezumados de sangre[この子がおぶっているのは,弟の亡骸である.彼は,火葬場で順番を待っている.この写真は,原爆で攻撃された長崎で,アメリカ人写真家 Joseph Roger O'Donnell により撮影された.子の悲しみは,噛みしめられて血のにじむ彼の唇にのみ表現されている].

この悲惨さは,この72年間,世界の幾つもの場所で繰り返されてきました.さらに,今や,核兵器の用いられる戦争の危機が再び迫っています.

しかるに,安倍晋三政権は,USA から大量の兵器を購入し,自衛隊の攻撃力を増強し,日本を戦争へ駆り立てようとしています.

日本社会が平和の意義に改めて目覚めるためには,1945年を再体験せねばならないのでしょうか?

話題を変えて,
元旦は,やはり御存じのように,神の母聖マリアの祝日でもあります.

この記事の冒頭に掲げた写真は,Notre Dame de Paris の主祭壇の向かって右手の柱のところに置かれた聖母子像です.(参考までに,12月31日,聖家族の日のミサの録画を御覧ください.特に,閉祭の際に,司祭たちはその聖母子像に祈りを捧げています).

わたしは,Paris に滞在するときは,たいてい,Notre Dame de Paris の主日 18:30 の御ミサに与ります.パリ大司教 André Vingt-trois 枢機卿(彼は今月隠退し,Michel Aupetit 大司教が新たに着座します)の説教がすばらしいのと,この聖母子像が好きだからです.

Raffaello の Madonna Sistina も好きですが,Notre Dame de Paris のこのマリア様は,冠をいただく天の后として,より威厳と憂いを有しているように見えます.右手には百合の花を持ち,左手で幼子イェスを抱いています.幼子は,右手で聖母のマントをつかみ,左手には地球を表す球を持っています.

Gérard Braumann という人が個人的な趣味で (?) つづっているブログの記事によると,この像は14世紀なかばに制作され,当初は Île de la Cité 内の別の聖堂のものでしたが,1855年に現在の場所に移設されました.

『サテンの靴』などの戯曲で知られるカトリック作家 Paul Claudel (1868-1955) は,時代の風潮に流されるがままに無神論者,唯物論者でしたが,18歳の年の降誕祭の日,単なる好奇心から,Notre Dame de Paris のこの聖母子像の近くで,立ったまま,晩課で聖歌隊の子どもたちが歌う Magnificat を聴いていたとき,突如感動に襲われ,信仰に目覚めた,とみづから証言しているそうです.

そのような神との出会いは,日本社会においては,どのようにして起こり得るでしょうか – キリスト教の信仰がまったく広まらないままの日本社会において?

というのも,ある人へ信仰を伝えることは,その人に向かって教条的な宣伝をすることによってではなく,その人のために神との出会いを準備することによって,初めて可能になるからです.

では,ある人のために神との出会いを準備するための条件は何でしょうか?

菊地功東京大司教様は,新年のメッセージで,教皇 Benedikt XVI の2005年の回勅 Deus caritas est[神は愛である]25段を引用なさっています:


教会の本質 [ Wesen ] は,三重の任務において表現される:神のことばの告げ知らせ (kerygma-martyria), 秘跡の祭典 (leiturgia), 愛の奉仕 (diakonia). それらの使命は,相互に条件づけら合っており,相互に切り離されない.愛の奉仕は,教会にとって,他人まかせにしておけるかもしれない福祉活動ではなく,而して,教会の本質に属するものであり,教会そのものの不可欠の本質表現 [ Wesensausdruck ] である.

そこにおいて,教皇 Benedikt XVI は「表現」(ausdrücken, Ausdruck) という語を二度繰り返しています.その語の接頭辞 aus は「外へ」を表します.英語では out of です.

また,名誉教皇は「本質」(Wesen) という語を三度繰り返しています – 本質を,内に秘めたままでいるのではなく,外へ現さねばならない,という文脈において.

主 Jesus の言葉が想い起こされます:「秘められているのは明かされるためにほかならず,隠されているのは明るみに来たるためにほかならない」(Mc 4,22).

キリスト教は,単なる「教え」ではなく,実践です.それは,神の本質ないし神の真理がおのづと自身を示現しようとするがままに示現し得るために奉仕することに存します.

教会の本質は三つの任務  神のことばの告げ知らせ,秘跡の祭典,愛の奉仕 – において表現される,と Benedikt XVI が言うとき,それは,それら三つが神の本質の自己表現(自己示現)の三つの方途であり,しかも,神の本質の自己示現は,教会を構成するわたしたち信者ひとりひとりにおいて – かつ,によって – 成起する,ということです.

ですから,教皇 Francesco も,キリスト教信者は「仲間うちに閉じこもっていてはならない;福音を宣べ伝えるために教会の外へでなさい」と勧告しています:


教会が,すべての人々へ福音を宣べ伝えるために,外へ出ること ‒ すべての場所へ,すべての機会に,ためらわず,いやがらず,おそれずに,外へ出ること ‒,それが,今日,肝腎なことである.福音の喜びは,人々すべてのためのものである.そこから排除されてよい者は,誰もいない (Evangelii gaudium, nº 23).

かくして,キリスト教信者が日本社会において誰かのために神との出会いを準備し得るとすれば,そのためには,まず,我々自身が「外へ出る」ことが必要である,と言えるでしょう.

勿論,それは単なる「書を捨てて,街へ出よう」ではありません.そうではなく,「わたしは Jesus Christ を信ずる者だ」ということを公にすることです.

信者であることを社会のなかで,社会に対して,隠したまま,ミサに与って,御聖体をいただければ,それで十分だ ‒ そう思う人もいるでしょうし,そのような信仰の様態を否定することはできません.しかし,福音宣教の観点から見るなら,そのような場合には,ひとつぶのタネはひとつぶのタネであるにとどまります.何倍か,何十倍かの実りをつけることはできません.

LGBTQ+ に関するテクストや記事を読んだことのある人なら御存じのように,"come out of the closet" という表現があります.closet は,何かをしまっておく「たんす」や「納戸」であり,引きこもる「小部屋」です.そこに何かを隠しておき,あるいは,そこに隠れているための空間です."come out of the closet" は,隠れた状態から外へ出て,白日のもとへ身をさらすことです.LGBTQ+ の文脈では,自身が同性愛者や transgender や queer 等々であることを全面的に  あるいは,限定的に ‒ 公表することを指します.

LGBTQ+ の人権擁護に関して先進的である国々では,coming out は積極的に推奨されています.差別をなくすためには,かつ,正当な人権を認めさせるためには,まず,「わたしは同性愛者だ,transgender だ,queer だ,等々」ということを社会のなかで「目に見える」(visible) ようにする必要があるからです.

それに対して,日本では,「わたしは,come out しないままで何の不都合もない.むしろ,隠れたままでいる方が差別を免れることができる.また,秘密の場所でいくらでもさまざまなしかたで楽しむこともできる」と考える人々が少なくないようです.

しかし,それでは LGBTQ+ の人権の主張と擁護という観点からは,何の進展も望めません.社会のなかで差別は温存されるままです.とりわけ,LGBTQ+ に属するかもしれない子どもたちに対する学校などでの差別やいじめは解消され得ません.

"come out of the closet" ‒ LGBTQ+ にかかわるテクストから学んだこの表現は,今や,日本のカトリック信者にとっても非常に重要な意義を持っている,と言えるでしょう.「わたしはカトリック信者だ」と come out すること,それこそが,日本社会における福音宣教の基本条件であり,その第一歩であるからです.

LGBTQ+ にとっても,カトリックにとっても,日本社会のなかで come out するのは多大な勇気を要することです.なぜなら,日本社会は「皆とは異なる」ことについて非常に不寛容であるからです.

なぜ日本社会は「皆とは違う」ことについてかくも不寛容なのか?それは,差異という裂け目が惹起する不安に耐えることができないからです.

「あの人は,変わった見かけの人だ,一般的でない考えを持っている人だ,世間のしきたりを無視する人だ,非国民だ,外国人だ」等々 ‒ それは,不安にさせます.その不安が耐え難いものであるとき,差別,排除,迫害が起こります.

日本社会は,不安の忍耐の限度が非常に低い社会です.なぜなら,神の愛を識らないニヒリズムの社会であるからです.

ニヒリズムとは,このことに存します:人間は神を忘れ,神は人間を見捨て,両者の間をつなぐものが何も無い.

しかるに,神を忘れた人間と,人間を見捨てた神との間をつなぐものがあります.それは,神の愛の受肉としての Jesus Christ です.

菊地功東京大司教様のモットーは「多様性における一致」です.

多様性は,多様な差異を包含します.それらの差異を無効化し,消し去るのではなく,差異を差異として保ち,尊重しつつ,なおかつ,バラバラに解体してしまうのではなく,ひとつのまとまりを保ち得ること ‒ それが,多様性における一致です.

では,何がそのような状態を可能にするのか?それは,神の愛にほかなりません.多様性の一致は,神の愛における一致です.神の愛が,差異の裂け目の不安に耐えることを可能にし,その裂け目によって隔てられた一方と他方との間にひとつのつながりをつけることを可能にします.教皇 Francesco が用いた表現で言うなら,「橋を架ける」ことを可能にします.

"Come out of the closet !" それは,日本社会におけるキリスト教信者の基本的な標語ではないでしょうか?その coming out によって,初めて,神の愛と隣人愛の可能性の条件がもたらされ得るからです.

世界で二十数カ国において同性婚の法制化にまで至った LGBTQ+ の人権擁護運動は,同性愛者の社会的可視化としての coming out から始まりました.最初の一歩は小さな一歩にすぎなかったでしょう.しかし,そこから社会全体の変化がもたらされました.

日本においても,わたしたちひとりひとりの小さな一歩が,神の愛による社会全体の変化をもたらすことになるかもしれません.

主よ,あなたの愛に信頼するわたしたちが日本社会のなかであなたの愛を証しすることができるよう,わたしたちを導いてください.Amen.

ルカ小笠原晋也