2018年1月5日金曜日

transgender と gender-queer を傷つける保守的宗教指導者たちの公開書簡に対して



Albrecht Dürer, Der Sündenfall oder Adam und Eva (1504)


USA のカトリック司教協議会 (United States Conference of Catholic Bishops : USCCB) の web site に,2017年12月15日付で,"Created Male and Female : An Open Letter from Religious Leaders"(男と女に創造された:宗教指導者たちからの公開書簡)と題された文書が公表されています.


そこに署名している20人は,USA のカトリック教会,聖公会,正教会の幾人かの司教と大司教たち,および,幾つかのプロテスタント教派とひとつのイスラム教団体において指導的な立場にあるのだろう人々です.

そこに表明された意見は,同性カップルの結婚の正当性を否定し,単純な性別男女二元論を規範として押しつけ,transgender や gender-queer の存在尊厳を傷つけるものです.保守的な宗教家たちの考えを集約したものと見なしてよいでしょう.

この数十年来 USA において LGBTQ community が自身の人権の主張と擁護のために展開してきた運動の成果に対する保守派の側からの backlash が,今,Trump 政権のもとで,表面化しつつあります.問題の文書も,その動きに属するものと見なし得ます.

それに対して,LGBTQ のために社会正義を擁護する全米的 NPO, National LGBTQ Task Force は,National Religious Leadership Roundtable (NRLR) の名義において,2017年12月22日付で批判声明全文を発表しました.そこに名を連ねた個人と団体の信仰も,カトリック,プロテスタント諸教派からイスラム教に至るまで,さまざまです.

その批判声明においては,今 USA において LGBTQ のなかで最もひどい差別を被っている transgender と gender-queer の擁護が展開されています.

わたし(ルカ小笠原晋也)は,こう考えています:人間においては,「男である」,「女である」,等々は,単純に性染色体によって決定されることではなく,また,単純に社会学的に規定されることでもありません.

特に,transgender や gender-queer の人々にとっては,幼少期から,「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,「わたしは誰なのか,わたしは何者なのか?」という根本的な実存的問いの一部を成しています.

人間において「生きる」ことは,そのような問いを問い続けることに存しています.

そも,神の被造物としての人間存在は,その sexuality も含め,その本質において,神の創造の神秘に属しています.

単純な性別男女二元論を社会規範として押しつけることは,人間存在の神秘について実存的な問いを問い続ける真摯さを圧殺し,できあいの「男らしさ」と「女らしさ」の制服の着用を,当事者の苦痛にもかかわらず,強制することでしかありません.

「わたしは男であるのか,女であるのか,いずれでもあるのか,いずれでもないのか,一方であったり他方であったりするのか?」の問いは,NRLR の文書のなかでは "gender questioning"[ジェンダーを問うこと]と呼ばれています.そして,そのような問いを問いつつ生きることは,"gender journey"[ジェンダーの旅]と呼ばれています.

人権に関しては日本よりずっと先進的である USA においてさえ,社会は基本的に男女二元論的であり,gender questioning や gender journey について必ずしも寛容ではありません.全米で transgender の人々の 41 % が自殺未遂をしたことがあり,2017年一年間で transgender の人々 27 人が transphobic な憎悪犯罪において殺害された,と NRLR の文書のなかで述べられています.

NRLR は指摘しています:宗教者の役割は,男女二元論的な規範を強制し,そこにそぐわない人々を「性倒錯」と断罪し,病理化して苦しめることに存するのではなく,而して,gender questioning と gender journey のさなかで生きる transgender や gender-queer の人々を,神の愛し子として,彼れらが問う実存的な問いの正当性を尊重しつつ,隣人愛を以て支え,神の愛との出会いへ導くことに存する.

昨年出版された "
Building a Bridge : How the Catholic Church and the LGBT Community Can Enter into a Relationship of Respect, Compassion and Sensitivity"[橋を架けよう ‒ カトリック教会と LGBT の人々とが敬意と共感と気遣いの相互関係に入れるように]の著者 James Martin 神父様 SJ は,彼の Facebook 記事のなかでこう述べています:

わたしの意見では(わたしはここで専門家として発言するわけではありません),教会が transgender の人々について最も為す必要のあるかもしれないのは,このことです:transgender の人々を愛すること,そして,彼れらの言葉に耳を傾けること.教会も世間も,たいがい,transgender の人々のことをまだよく知りません.彼れらがどのような経験をしているのかをたいして知ってはいません.たとえば,2, 3 ヶ月前,わたしは,ふたりの psychologists に別々の機会に質問しました.transgender の人々と職業的にかかわる経験をしている psychologist たちです.わたしは質問しました:「このところ transgender の人々が増えていることの背景には何があると思いますか?より公に受け入れやすくなったからですか,あるいは,メディアの注目がより増えて,若者たちを『わたしは transgender だ』と自認する方向へいざなっているからですか?」彼れらはふたりとも「見当もつきません」と答えました.(勿論,わたしもです).言い換えるなら,もし psychologist たちでさえこの非常に複雑な現象について確かなことは言えないならば,教会は,まず最初に transgender の人々の経験に耳を傾けることなしに,何か声明を発することについては,慎重であるべきです.では,どうすればよいか?まずは,謙虚になりましょう.そして,この transgender の現象についてもっと多くのことを学ぶ必要がある,ということを認めましょう.第二に,transgender の人々に質問しましょう:あなたはどのような経験をしていますか?どのように苦しんできましたか?あなたにとって神は何者ですか?そして,第三に,このことを忘れないでおきましょう:世の中で生きる道を探し求めようとしている transgender の人々のうちには聖霊が働いている,ということを.ですから,彼れらを愛しましょう.そして,彼れらの言葉に耳を傾けましょう.

わたしたちも,そうして行きたいと思います.

現代社会において,性別男女二元論はいまだに社会規範を成しています.そこからはずれる transgender や gender-queer の人々が顕在化させる差異の裂け目は,規範のなかで生きている者たちを不安にさせます.その不安に耐えることができない者たちは,規範外の人々を差別し,排除し,迫害します.あるいは,規範に従うことを無理強いします.

特に日本社会では,性別に関すること以外でも,さまざまなことがらに関して,そのような差別と排除と迫害と強制が日常的に生じ続けています.

差異の裂け目を覆い隠してごまかそうとするのではなく,差異を差異として保ったまま,差異の裂け目によって隔てられた一方と他方とを,両者が単なる決別や決裂に陥らないように,両者の間に橋を架け,つなぐことを可能にするもの,それは,愛です.神の愛と,それにもとづく隣人愛です.

神の愛と,それにもとづく隣人愛と:日本社会に決定的に欠けているものです.そのことが,日本社会の不安に対する耐性の低さを規定しています.日本社会が不寛容である所以です.

しかし,だからこそ,神の愛の福音は,今,日本社会が最も必要としているものであるはずです.それを待つ耳がたくさんいるはずです.福音を宣べ伝える機は熟しています.

他方,LGBTQ+ の側からカトリック教会へ自分たちの実際の経験を語り伝える試みも期待したいと思います.以前にも一度,そのような呼びかけをしたことがありました.今年は,より多くの人々の声が教会へ伝わるよう,LGBTCJ としても努力して行きたいと思います.

ルカ小笠原晋也

参考:

注:「彼」,「彼ら」ではなく,「彼れ」,「彼れら」と表記するとき,それらを gender neutral な代名詞として用いています.