2017年9月11日月曜日

性的指向を変更する「治療」の無効性と有害性について

homosexuality に関して,性的指向 (sexual orientation) を同性方向から異性方向へ変更することは可能である,という議論が,いまだに SNS などで散見されます.

この問題に関しては,2009年に発表されたアメリカ心理学協会 (the American Psychological Association) 「性的指向への適切な治療的対応」問題委員会の報告書が,既に結論を出しています.勿論,性的指向を変更する「治療」は無効であり,有害でさえあり得る,という結論です.

同報告書の冒頭に掲載されている要旨の原文と邦訳を御紹介します:

The American Psychological Association Task Force on Appropriate Therapeutic Responses to Sexual Orientation conducted a systematic review of the peer-reviewed journal literature on sexual orientation change efforts (SOCE) and concluded that efforts to change sexual orientation are unlikely to be successful and involve some risk of harm, contrary to the claims of SOCE practitioners and advocates. Even though the research and clinical literature demonstrate that same-sex sexual and romantic attractions, feelings, and behaviors are normal and positive variations of human sexuality regardless of sexual orientation identity, the task force concluded that the population that undergoes SOCE tends to have strongly conservative religious views that lead them to seek to change their sexual orientation. Thus, the appropriate application of affirmative therapeutic interventions for those who seek SOCE involves therapist acceptance, support, and understanding of clients and the facilitation of clients’ active coping, social support, and identity exploration and development, without imposing a specific sexual orientation identity outcome. 
 アメリカ心理学協会 (the American Psychological Association) の「性的指向への適切な治療的対応」問題委員会は,「性的指向を変更する努力」(sexual orientation change efforts : SOCE) をテーマとして査読つき学術誌に掲載された諸論文を体系的に調べ直した.そして,SOCE の実施者や支持者の主張とは逆に,SOCE は成功する見込みが無く,むしろ有害である危険性がある,と結論した.同性の相手に性的または恋愛的に惹かれ,そう感じ,それによって行動することは,性的指向に関するアイデンティティにかかわりなく,人間のセクシュアリティの正常でポジティヴなヴァリエーションである,と研究論文も臨床論文も証明している.しかしながら,SOCE を受ける人々は非常に保守的な宗教的意見を有している傾向があり,そのせいで性的指向を変更することを求めてくるので,SOCE を求める人々に対する肯定的な治療的介入の適切な適用として含まれるべきことは,治療者は,特異的な性的指向に関するアイデンティティを治療結果としてクライエントに押しつけることなく,クライエントを受容し,支え,理解し,クライエントが能動的に問題に対処し,社会的な支えを得て,自身のアイデンティティを探求し発達させるよう助けることである.


もし,この問題に関していまだに理解不十分な人の議論を SNS などで見かけた場合は,このブログ記事へのリンクを紹介してあげてください.

ルカ小笠原晋也

2017年9月7日木曜日

LGBTQ を嫌悪する福音派プロテスタント教会の声明に対する LGBTQ クリスチャンの側からの反対声明

2017年8月29日,USA の保守的な福音派プロテスタント教会が構成する the Council on Biblical Manhood & Womanhood は,同性愛,同性婚,性別非二元論を非難する14組の肯定と否定から成る Nashville Statement を発表しました.LGBTQ+ の人々を非常に傷つける内容です.

Nashville 市長は,市の名が冠されたその声明を直ちに非難し,良識的なジャーナリズムは批判的な記事を発表しました.

カトリック教会からもプロテスタント教会からも,Nashville 声明を批判し,LGBTQ+ を擁護するために,何組かの肯定と否定から成る声明が発表されました.ここに翻訳して御紹介します.

ひとつは,LGBTQ+ 擁護で有名な James Martin 神父様の Twitter での発言です.一連の tweet は,「sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方」と題されて,the Washington Post にまとめて転載されました. 

もうひとつは,親 LGBTQ プロテスタント諸会派の関係者多数が連名で発表した声明です.



sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方 by Fr James Martin SJ



わたしは肯定する:神は LGBT の人々すべてを愛している.

それに対して,Jesus が我々を侮辱したがっている,裁きたがっている,あるいは,LGBT の人々をさらに差別したがっている,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:我々は皆,回心が必要だ.

それに対して,おもな罪人は LGBT の人々である,あるいは,LGBT の人々だけが罪人である,と何らかのしかたで特別視することを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,Jesus は,断罪ではなく歓迎を以て導いた.

それに対して,Jesus が裁きをもっと欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,洗礼のおかげで,教会のまったき一員である.

それに対して,LGBT の人々が自分たちは教会の一員ではないと感ずるよう神は欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:多くの教会によって,LGBT の人々は,自分たちがあたかも汚れた者であるかのように感じさせられてきた.

それに対して,我々が LGBT の人々の多大な苦しみをさらに増すよう Jesus は欲している,ということを,わたしは否定する.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,わたしが知る最も聖なる人々に属している.

それに対して,Jesus は我々が他者を裁くよう欲している,ということを,わたしは否定する.そのようなことを Jesus は明らかに禁じている.

わたしは肯定する:LGBT の人々は,御父により愛されており,御子により招かれており,聖霊により導かれている.

それに対して,LGBT の人々に対する神の愛に関してわたしが否定することは,何も無い.


Christians United in Support of LGBT+Inclusion in the Church(教会における LGBT+ 包容を支持するために一致するクリスチャンたち)の声明2017830日付)


Jesus Christ のあとに従う者として,わたしたちは,あらゆる時代において,神の愛と恵みと真理を証しせねばならない.わたしたちは,神を信じ,神に仕える.神は,生きており,働いており,わたしたちが Jesus Christ の似姿および彼れが宣言した王国へもっと近づけるよう,絶えず導いてくださっている.Christ 御自身がわたしたちに断言したように,聖霊に従うことは,しばしばわたしたちを変化の時代へ導く.そこにおいては,わたしたちは,自分たちの伝統と慣習について反省し,それらを Jesus Christ の心と手本により明らかに適うものへ改革するよう呼びかけられている.それは,キリスト教の歴史全体を通じて当てはまることである.かくして,わたしたちは,わたしたち以前のあらゆる時代と同様に,キリスト教の教えと慣習について反省し,悔い改め,それらを Jesus Christ において啓かされた神の心と意志により密接に添うものへ改革するよう呼びかけられている.

教義や伝統を考え直し,改革するよう,神がわたしたちに呼びかけているのに,聖霊の導きにさまざまなしかたで抵抗し,旧来の教義や伝統に固執する者たちは,いつの時代にもいる.わたしたちの歴史を通じて,聖霊が聖化する業(わざ)の最先端を行く者たちは,当初,既成のキリスト教組織に属する者たちによって,排除され,差別され,悪魔視されることが,しばしばあった.21世紀の今日,教会は再び新たな改革の際に立っている,とわたしたちは信ずる.その新たな改革において,聖霊は,人間の性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えを再検討するために聖書と伝統へ立ち返るよう,わたしたちに呼びかけている.

数十年にわたり,多くの司牧者と神学者と改革者が,大胆にも,聖霊の呼びかけに応えて,性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えの理解を刷新するよう教会に呼びかけるために,歩を踏み出してきた.性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えは,lesbian, gay, bisexual, transgender, non-binary, queer の人々を,神により創造され,完全に祝福された者として,かつ,あるがままの状態で つまり,キリスト教が従来登用し受け入れてきた異性愛規範的,家父長的,男女二元的な性的指向と性別規範に迎合する必要無しに 教会と社会の生活へ歓迎されている者として,包容し,肯定し,受け入れる.それらの預言者的な声が歩み出すにつれて,伝統的なキリスト教組織のなかからは,彼れら 聖書と伝統を再検討するよう導く聖霊に忠実に従う者たち を悪魔視し,排除し,差別するために労を惜しまない者たちが出てきた.改革者たちは偽教師であり,異端者であり,世界中のクリスチャンの小さな割合をしか代表していない,とそれらの者たちは言い張った.

特に過去20年間で,世界中で何万人ものキリスト教徒が,聖霊の促しに応え始め,聖書と伝統の教えを理解し,LGBT+ の人々と彼れらの人間関係とを全的に肯定し,受容し,称賛するようになった.伝統的なキリスト教組織のなかには,LGBT+ の包容に関する考え方を改めさせた傑出したクリスチャンの声のうねりが高まるのを抑えようとする者もいるが,否定しようのない真理はこのことであり続ける:すなわち,性的指向と性同一性に関する「伝統的」なキリスト教の教えは捨て去られつつある;そして,それに代わる新たな性的指向と性同一性の理解は,より誠実であり,よりキリスト中心的であり,わたしたちの信ずるところでは,より聖書にかなっており,それは,神の創造性をたたえ,神による人間の創造における豊かな多様性を賛美するものである.

教会のなかで,新たな一日が夜明けを迎えつつある.クリスチャンは皆,LGBT+ の同胞たちを等しく神の国に与る者として肯定し,称賛するために,大胆に,言いわけ無しに,歩み出すよう,呼びかけられている.それゆえ,Jesus Christ の教会に仕えることを望みつつ,かつ,より大きな改革と教会と LGBT+ の人々との和解を促進することを望みつつ,わたしたちキリスト教指導者たちの連盟は,以下の肯定と否定を提示する.

その 1 :
わたしたちは肯定する:人間は皆,神の似姿に創造されており,人類においてそれぞれユニークな性的指向と性同一性の広範なスペクトラムを通じて表現される豊かな多様性は,神の創造の業(わざ)の規模の完璧な反映である.

それに対して,神の創造の意図は性別二元論に限定されており,人間の恋愛関係に関して神が欲することはひとりの男とひとりの女との間の異性愛的な関係においてのみ表現される,と示唆するようなあらゆる教えを,わたしたちは否定する.

その 2 :
わたしたちは肯定する:神は結婚をこのようなものとして計画した すなわち,結婚は,愛し合い,仕え合い,生涯相互に誠実に委ね合った生を生きることを誓約した人間たちの間の契約の絆である.

それに対して,神は人間の恋愛関係をひとりの男とひとりの女との関係に限定しようと意図した,ということを,わたしたちは否定する.そして,互いに愛し合い,仕え合うことを契約し,誓約する人間の神聖な,もしくは市民的な権利を制限しようとする試みは,いかなるものも,神の創造の計画に対する侮辱である,と宣言する.

その 3 :
わたしたちは肯定する:堕落した人間たちの関係は大きな歪みを被り,その結果,さまざまな形の不貞や不健全な行動が生じ,それらは人類の苦しみを悪化させている;しかるに,神が欲しているのは,人間皆が愛と自己犠牲の相互関係 恋愛的なものであれ,プラトニックなものであれ,社会的なものであれ,また,性にも性同一性にもかかわりなく に入ることである.

それに対して,人間関係の堕落のゆえに性的指向と性同一性の多様性が生じたのだ,ということを,わたしたちは否定する.むしろ,堕落は,自身を与える愛 その似姿にわたしたちは創造されている の代わりに,快楽主義的な自己利害にもとづいて機能する人間の能力のうちに表れている.

その 4 :
わたしたちは肯定する : intersex[何らかの先天的な条件により生物学的性別分化が非定型的である人々]として生まれた人々は,神の似姿を完全に,かつ等しく有する人々であり,完全な尊厳と尊重に値する;わたしたちは,intersex の人々を,彼れらの自己実現の旅路において,および,神によって創造された彼れらのユニークな性的指向と性同一性 それが如何なるものであれ を受容する旅路において,肯定し,支える.

それに対して,intersex の人々は,性別二元論や異性愛規範的な性別規範に合致するよう求められている,ということを,わたしたちは否定する.

その 5 :
わたしたちは肯定する:男の性同一性と女の性同一性は大多数の人間の家族の反映であるとはいえ,神は,男女二元性に当てはまらない性同一性を有する人々を創造してきた.transgender の人々は,本当の性同一性とは合致しない身体を持って生まれてきた.わたしたちは,それらの人々を支えるべきである.そして,「わたしは誰か」,「どのように神はわたしを創造したのか」の問いに関して彼れら自身が識っていることを,信頼すべきである.

それに対して,身体の生物学的所与にもとづく文化的想定に合致する性同一性を受け入れるよう強いることが健全な行いであり,異性愛的男女二元論が創造における神の聖なる意図に唯一適合する反映である,ということを,わたしたちは否定する.

その 6 :
わたしたちは肯定する : LGBT+ クリスチャンは,神が欲することを履行する聖なる生 すなわち,彼れらのために神が創造の際に意図したことに適うよう生きることをとおして神に喜ばれる生 を生きるよう呼ばれており,また,クリスチャンすべてと同様に,わたしたちの主 Jesus Christ の手本を反映する生のリズムにあわせて歩むよう呼ばれている.

それに対して,異性愛または男女二元的性同一性が,神の創造の自然な善さを反映する唯一の正当な性的指向と性同一性である,ということを,わたしたちは否定する.

その 7 : わたしたちは肯定する : LGBT+ の人々は,LGBT+ である個人として,かつ Jesus Christ に忠実に付き従う者として,誇りをもって公然と生きることができ,また,彼れらは,教会が Christ のからだとなる召命を十全に受け入れ得るために,教会のリーダーシップと生と教役のあらゆるレベルにおいて,例外無く十全に受容され包容されねばならない.さらに,わたしたちは肯定する : Christ は,教会が,性的指向や性同一性や諸個人の関係性や性に関する信念の多様性のただなかにおいて,ひとつであり,ひとつにまとまるよう,呼びかけている.

それに対して,性的指向と性同一性 にかかわる聖書の言葉をどう解釈するかに関する教えは正統性を規定する問題であり,クリスチャンの間の分裂の原因となるべきだ,ということを,わたしたちは否定する.

その 8 :
わたしたちは肯定する:世界中のキリスト教教会において,非包容的な教えは,LGBT+ の人々を心理的,精神的に著しく傷つけている.また,わたしたちは肯定する : Jesus Christ の教会は,何十万人もの人々にいじめ,虐待,家族や共同体からの排除を経験させてきた有害なメッセージの宣教について罪を負っており,Christ の名において LGBT+ の人々に対して為されてきた害について,公に悔いねばならず,LGBT+ の人々との和解を求めねばならない.

それに対して,有害な教えをやめようとせず,LGBT+ の人々との開かれた対話を拒むクリスチャンは Jesus に忠実にならう手本に従った生を生きている,ということを,わたしたちは否定する.

その 9 :
わたしたちは肯定する:性的指向と性同一性は,相異なる多様なしかた そこには,独身であることも含まれる で表現され得る.また,わたしたちは肯定する:神が欲することへの積極的参加,同意,尊重,自己犠牲的愛は,クリスチャンにとって神聖かつ正当と見なされるべきあらゆる生と関係性の中心であらねばならない.

それに対して,関係性の家父長的,異性愛規範的なモデルに合致させるために,性的指向や性同一性を変えることを約束する何らかの形の治療を受けるよう,ある個人 特に,未成年者 に強いるべきだ,とする意見を,わたしたちは否定する.

その 10 :
わたしたちは肯定する : Jesus Christ は,人間すべてに救済をもたらすために世に来たのであり,彼れの生と教えと死と復活によって,あらゆる人は Christ による贖いへ招かれている.

それに対して,Christ は誰かを性的指向や性同一性の理由でその愛に満ちた受容から排除する,ということをわたしたちは否定する.また,同性愛,両性愛,queer sexuality, trans identity, asexuality, その他の queer identity は,罪深く,歪んでおり,神の創造の意図からはずれている,ということを,わたしたちは否定する.

ルカ小笠原晋也による翻訳

訳者注記:三人称代名詞を「彼れ」,「彼れら」と訳しました.特に they の訳語として gender を特定する「彼ら」や「彼女ら」を用いるのを避けるために,本来 gender neutral な指示詞「彼(か)」の利用を復活させてはどうか,と思うからです.それにともなって,単数形も「彼」(かれ)ではなく,「彼れ」(かれ)としてはどうでしょうか?「彼れ」は,gender neutral な三人称単数代名詞として用いることができるでしょう.もっとも,文書のなかでだけですが...

2017年8月25日金曜日

鈴木伸国神父様の説教,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ



鈴木伸国神父様の説教,20170820日,LGBT 特別ミサ


聖書のことばには,たとえその一節についてではあってもたくさんの解釈や説教が歴史のなかで積み重ねられていて,そこに何か新しいことが見つけられることはなかなか難しいはずです.でも不思議なことにわたしには読むたびごとに違った趣を示してくれるもので,いつも新しい発見や着想を与えてくれます.

カナンの女(マタイ 15,21-18


今日の個所はイエスが異邦の地に旅をしたときの話しです.ティルスとシドンはガリラヤ湖からは 40 - 50 km ほどの地中海岸沿いの港町で,現在のレバノンにあたる地域にありました.そこである女性がイエスに自分の娘の病を癒してくれるように願い,断られながらも根気強く願いつづけ,最後には聞き入れられたというお話しです.新共同訳には「カナンの女の信仰」という小見出しが付けられています.

この箇所をよむとき,信じれば「桑の木」や「山」も動くという物語(マタイ17,19f ; ルカ17,6)のように,信じることの不思議さを感じることがありますし,「裁判官とやもめ」(ルカ 18,1-8)のように根気強く願い,また祈りつづけることの意味を考えさせられることもあります.自分のことではなく,自分の娘を思う母の強さと愛情にこころが留まることもあります.でも今日はわたしにはまったく別の情景が浮かびました.

わたしに特別な印象を与えてくれたのは「主よ,ごもっともです.しかし,小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というカナンの女性の言葉です.たいへん失敬な言い方になるかもしれませんが,この句がわたしには,少し,いえ,かなり慣れなれしそうな話し方で,たとえばこんな響きをもって聞こえてきました:

もちろんです.もちろんですとも,イエス様.本来ならあなたが異邦人に親しくしてくださるなんてことはないはずです.でもイエス様,さっきテーブルのうえのパンを,お足元の子犬たちに分けてあげていらっしゃるとき,イエス様,とってもおやさしいお顔でしたわ.ほんとに,遠くから拝見しただけもちょっと涙ぐんじゃうくらいの,おやさしい微笑みでらっしゃいました.ねぇイエス様,神様のお恵みはあなたのなかであふれるほどです.ねぇ,イエス様.

そうですねぇ.少し違いますけれど,ミュージカル映画 Sister Act[邦題:天使にラブソングを](1992) のなかの Deloris (Whoopi Goldberg) か,歌謡グループ Perfume の歌「ねぇ」のような印象でしょうか.自分でも何だか分かりませんが,わたしのなかにそんな情景がひろがり,わたしは一遍にこのカナンの女性のファンになりました.(聖句にもとづく観想的な祈りというのは不思議なもので,それがどんな意味なのかは分からないままにまずイメージが与えられます.)

信頼


わたしが新しさを感じたのは多分,(丁度「聖書と典礼」の冊子の扉絵のように)へりくだって腰をまげて,あるいはひざまずいてイエスに恵みを請い願う女性という,わたしが持っていたそれまでのイメージが,イエスととても親しい人たちと同じ立場にある人と変わらない親しさで,あるいは自分の友人が困っている自分を助けないなどとはちっとも思わずに,何の疑いもなくイエスに向かって助けを求める手を差しだすような,そんな一人の女性のイメージへと転換したからだと思います.

心象としてその展開を描いてみれば以下のようなものです.この女性は自分を遠ざけようとしているイエスにむかって,自分が彼にとって大切な存在である,あるいはなりうることを疑わずに,逆に近づいて行きました.近づいて,そして少しも恐れたり,不安に飲まれることなく,イエスの前にとどまり,イエスに無関係なものではないだけではなく,ごく短い対話を通じてでも,親しく言葉と愛情を交わし合える存在であることを示しました.そしてイエスの眼差しのなかで彼女はもはや異邦人としてではなく,自分にとってかけがえのない友人たちの一人に実際に変貌します.そのとき「イスラエルの失われた子ら」であるか否かという区別と障壁がイエスの中で消え,それにせき止められていた恵みは,イエスの承認の言葉とともに,この女性のうえに,そしてその娘へと流れだしてゆく.

新共同訳でイエスの承認の言葉は「あなたの信仰 (πίστις, pistis) はりっぱだ」と訳されていますが,わたしはここでは「あなたの信頼はりっぱだ」と理解したいと思います.「あなたはわたしを信頼し,わたしがあなたを友として受け入れることを疑うことなくわたしに近づき,わたしのこころの情景を変えてくれた.あなたの信頼があなたをわたしの友とし,わたしをあなたの友としてくれた」.そんな印象でしょうか.

たぶんこのようなわたしの心象の背景にあるのは,1960 - 1970年代にかけての学生運動やフェミニズム運動に自分を賭してきた人たちの姿だと思います.彼らはそれまで個人のなかに押し込められてきた悩みや苦悩を,公共的な場に提示し,それを願いとしてではなく,自明,あたりまえのこととして実践しました.でもそれを「運動」などと,とりたてて言わなくてもいいのかもしれません.誰かの苦しみはたいていはある事象を苦しみとして感じさせる社会構造と表裏のものであるはずのもので,自分の中だけから作られた悲しみなどというものはどこにも無いはずだからです.たしかに “the private is political (or public)”個人的なことは政治的なこと)だからです.

それにしてもこの女性は「つよい」と思います.自分の娘と自分の苦しみを,隠されるべき負の負い目としてではなく,友人でもないが友人になってくれるだろう人のもとに,引け目や恥の意識をのりこえて差し出しているからです.このときこの女性は,多くの解釈のように,腰を曲げて,自分が悪いものででもあるかのように,懇願することもできたでしょう.しかしそれでは,人と人を分かつ区別と障壁は,別種のものに変えられることはあっても取り払われてしまうことはなかったでしょう.

人のこころの機微


もう一つこの女性の姿でわたしをひきつけるものがあります.このカナンの女性のかしこさです.かしこさと言っても,頭がいいとか博識だというのではありません.彼女は人の心のどこのボタンをどの順番で押せばいいのかを心得ているように感じたからです.

そもそもイエスの態度はなかなかのものです.彼の最初の反応は「何もお答えにならなかった」,つまりまったくの無視です.つぎに弟子たちから急かされたときの反応は  自分は「失われた羊のところにしか遣わされていない」‒ 拒否です.しかも出自の違いを盾にした拒絶です.そして詰寄ってくる女性に 今の文脈なら明らかに相応しくない incorrect な言い方になりますが 「犬」という言葉をかけます.自分の母親に向かって「そこの女性」と呼びかける人だとしても,あんまりだと感じます.

ではカナンの女性の側はどうだったでしょうか.彼女は初めは「叫んで」いました.そして弟子たちがイエスに取り次いでいるのを遠くから覗い,今度は叫ぶことなく,しかし「ひれ伏して」イエスに懇願します.この女性はしたたかに人の機微を伺って願うものへと近づいてゆきます.そしてイエスから侮蔑的な言葉とともに最終的な拒絶を投げかけられたときには これは飛び切りなのですが ,その侮蔑のことばをそっくり受け取って,主人と食卓,パンと犬からなる,同じ情景のなかに,まったく別の,逆の含意をもった物語りをつくり,しかも相手がきっと受け取るだろう文脈を添えて返しています(「ごもっともです.しかし,小犬も...」).彼女は,願うものを得るために,機智を見せるだけでなく,人の心もうけとっています.苦労を知っている人の知恵のようにも思えますし,(意識的な技巧ではないかもしれませんが結果からすれば)外交官なみのたしなみのようにも思えますが,わたしには神を信じる人の巧まざる愛情と知恵の現れのように感じられました.

その結果,イエスはあっさりと考えを変えます.ほぼ180度です.「あなたは正しい.ぼくが間違っている.それがはっきりと分かる.ああ,婦人よ,あなたの信頼は神に嘉(よみ)されている.恵みはあなたのものだ」と言っているような気がします.自分の側にある壁をのりこえて,また裏切られることもあらかじめ受け入れながら,人を信頼すること,人が笑顔を交わし合えることを信じられること.たしかにこの女性が自分を神に愛されるものにしたのだと思います.

いったいわたしのこんなイメージがお説教に相応しいのかどうか分かりませんが,少なくとも私はこの女性のファンになりましたし,皆さんも少しファンになっていただけたとしたら,それで十分な気がいたします.

注)このテクストは,8月20日の LGBT 特別ミサにおける説教の録音にもとづいて,鈴木伸国神父様が改めてお書きくださったものです.

共同祈願,2017年08月20日,LGBT 特別ミサ



Pieter Lastman (1583-1633), キリストとカナンの女 (1617), Rijksmuseum, Amsterdam


小宇佐敬二神父様と鈴木伸国神父様のために祈りましょう.小宇佐神父様は,御病気のため暫く療養に専念なさることになりました.あわれみ深い主よ,あなたのしもべ,わたしたちの牧者,小宇佐敬二神父がすみやかに元気を回復することができるよう,彼を癒してください.そして,寛大な主よ,彼に代わる牧者として鈴木伸国神父をわたしたちに与えてくださったことを感謝します.あなたの愛の恵みを特別に注ぎ,鈴木神父を祝福してください.

LGBTQ inclusion に積極的に取り組む教役者たちのために祈りましょう.アメリカの Newark の司教 Joseph Tobin 枢機卿に続いて,世界のあちらこちらでカトリック教会が LGBTQ の人々を歓迎し,包容する姿勢を公にあらわしています.Scotland Glasgow Paul Morton 神父Facebook でこう告知しました:「わたしたちの教会は,性的少数者を歓迎します.神の愛から排除されている人は,ひとりもいません.神の家には誰もが歓迎されます」.また,Brazil Cruz 司教は,説教でこう説きました:「性的少数者であることは,個人の選択によるのでも精神疾患によるのでもないのだから,神の賜以外のものではあり得ません.人種差別と同じく,sexuality による差別は克服されねばなりません」.日本でも,晴佐久昌英神父様は,キリスト教徒の心に根深く残る原理主義的な傾向を批判し,神の愛の全包容性と救済の普遍性を説いています.そして,彼が主任司祭を務める教会は LGBTQ の人々をいつでも歓迎する,と断言しています.慈しみ深い主よ,あなたの愛をあまねく実現するよう努めるあなたのしもべたちを祝福してください.あなたの福音を世界中に宣べ伝えようとする彼らの声に耳を塞ぐ者たちの心を優しく開いてください.

ブラジルの LGBTQ 人権活動家 Toni Reis と彼の家族のために祈りましょう.Toni Reis と彼の夫 David Harrad の同性婚カップルは,あきらめずに求め続けた結果,養子三人を迎えることができ,さらに,子どもたちに洗礼を授けてもらうこともできました.そして,子どもたちの洗礼について Papa Francesco の祝福の言葉を伝える手紙を Vatican から受け取りました.命を与えてくださる主よ,あなたは,実の親により育てられずにいた子どもたちに同性婚カップルを親として与え,あなたの愛の聖霊で彼らに新たな命を与えました.Toni David と彼らの子どもたちを改めて祝福してください.世界中の同性カップルとその子どもたちにも,あなたの愛の恵みを与え,皆を祝福してください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰ひとり排除せず,誰をも皆包容するあなたの愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

ルカ小笠原晋也

2017年8月10日木曜日

ブラジルの司教が「同性愛は神からの賜である」と説教



ブラジル Caicó 教区の司教 Antônio Carlos Cruz Santos は,730日の説教で「同性愛は,神からの賜である」と述べました.それに対する大きな反響を受けて,司教は86日,教区の website 声明を発表しました.そこにおいて彼は,LGBTQ+ の人々の自殺率が高いことを改めて指摘し,「死を惹起する偏見を克服し,命を救うことが,わたしの意図するところである」と述べました.

司教が730日,Caicó 教区の聖アンナ祭を締めくくるミサで行った説教の内容を,我々は,Crux 紙の記事にもとづいて,次のように要約します:

わたし(Cruz 司教)は,あるとき,ラジオで,transgender の人々の高い自殺率に関する研究について聞いた.そして,奴隷制が容認されていた時代の黒人と同様に,今 LGBTQ の人々が被っている社会的な偏見や誤解について考え始めた.

我々の SOGI (sexual orientation and gender identity) は,我々自身が選べるものではない.選択は自由意志において為されるが,自身の SOGI が如何なるものかを我々はあるとき所与として気がつくだけである.

我々は,sexuality を尊厳ある倫理的なしかたで生きることもできるし,逆に,放埒なしかたで生きることもできる.それは,SOGI の如何にかかわらない.

また,WHO は,LGBTQ をもはや精神疾患とは見なしていない.

選択でもなく,疾患でもないなら,信仰の観点においては,LGBTQ であることは神からの賜以外のものではあり得ない.

それに対して,我々が有する偏見は,神からの賜ではない.例えば,奴隷制が容認されていた時代,黒人は人間とは見なされていなかった.黒人には魂は無いと言われていた.それは,偏見のせいであった.

我々は,福音の知恵において,そのような偏見を克服するために跳躍することができた.奴隷制の容認から否定へ,両者を隔てるギャップを飛び越えることができた.まさにそのときのように,我々は,今や,同性愛に対する偏見を克服するために跳躍すべきである.

Papa Francesco は,慈しみをカトリック教義の出発点としたいと思っている.主 Jesus Christ は,慈しみのためにこそ,十字架上で高い代価を支払ってくださったのだ.

以上のような内容の説教に対して,称賛とともに,少なからぬ批判が起こりました.そこで,Cruz 司教は,86日,教区の website 声明を発表しました.そこにおいて司教は,カトリック教会のカテキズム 2358 段(注)を改めて引用しつつ,自殺を引き起こすような偏見を神の慈しみの力動において克服し,人々の命を救うことこそが,彼の意図するところである,と述べています.

(注)カトリック教会のカテキズム 2358 段:「無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.(...) 彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼ら・彼女らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼ら・彼女らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.」

ルカ小笠原晋也

2017年8月9日水曜日

養子に洗礼を授けてもらった同性婚カップルを Papa Francesco が祝福


向かって左から,Alyson (16), Toni Reis, David Harrad, Felipe (11), 
子どもたちを洗礼した神父様,Jessica (14)

Brazil の Curitiba 在住の LGBTQ 人権擁護活動家 Toni Reis 氏は,本年06月04日付で手紙を Papa Francesco へ送り,彼と彼の同性パートナー David Harrad 氏との養子三人(息子ふたりと娘ひとり;ふたりの男の子のうちのひとりと女の子とは同じ両親から生まれた兄弟)が04月23日にやっと洗礼を受けることができたことを知らせました.


「やっと」と言うのも,彼らの子どもたちの洗礼の求めに対して Curitiba 大司教 José Antônio Peruzzo が許可を出すまでに三年もかかったからです.

Reis 氏は,子どもたちの夢は07月07日から13日まで一週間,家族旅行でイタリアに滞在する間に教皇から直接祝福を受けることだ,とその手紙のなかで教皇に伝えました.

残念ながらその夢はかなえられませんでしたが,Reis 氏のもとには07月10日付の Vatican からの返答書簡が国務省総務課補佐官 Monsignore Paolo Borgia の名義で届きました.


 
その手紙のなかで Borgia 神父は,Papa Francesco は Reis 氏の家族に神の恵みが豊かにあるよう祈っている,と述べ,教皇の祝福の意を伝えてきました.

Reis 氏は,彼の教皇宛書簡と Vatican からの返答書簡とを Facebook で公表しました.「養子に洗礼を授けてもらった同性婚カップルを,教皇が祝福した」このニュースは,世界中に報道されました.

カトリック教会の分裂を惹起しないために同性婚を結婚の秘跡として認めるところまでは踏み込まないものの,LGBTQ+ の人々を差別無く歓迎する Papa Francesco の全包容的な司牧姿勢が,改めて確認されました.

わたしたち LGBTCJ も,Papa Francesco にならって,神の全包容的な愛の福音を今後もますます日本社会に宣べ伝えて行きたいと思います.

ルカ小笠原晋也

2017年8月3日木曜日

Scotland の小教区教会が Facebook で LGBTQ 歓迎を表明

Scotland Glasgow 市の Cambuslang 地区にあるカトリック小教区 Saint Bride 教会は,724日,Facebook に「ゲイ歓迎」の表明を投稿しました(この場合,“gay” という語は LGBTQ+ 全部を指す広義において使われていると解釈します):


Fr Paul Morton

Fr Morton wants to repeat again that all gay Catholics are accepted and welcomed in this parish.
Every single human person is loved by God and created to love by Him, this is a fundamental belief of our faith. No one is ever excluded from God’s love or his concern or his care or his plan for them.
In God’s house all are welcome and are the blessed and loved children of God. There should be no place in our language or our attitude which allows for prejudice or exclusion.
Anyone who is gay and who wishes to share or discuss this with Fr Morton please feel free to come to the parish house. Also any family member who wishes to discuss or share this please come along.
We must do everything we can to redress the harm that has been done in the past by the negative stance we seem to have taken up. We must join with others who are seeking to build a more inclusive society.
Morton 神父は,次の告知を改めて繰り返したいと思います:わたしたちの小教区では,ゲイのカトリック信徒は皆,受け容れられ,歓迎されます. 
あらゆる人間は,ひとりひとり,神に愛されています.神により愛されるために創造されています.それは,わたしたちの信仰において根本的に信ぜられていることです.神の愛から排除されている人は,誰ひとりいません.人間に対する神の気づかい,神の配慮,神の計画から排除されている人は,ひとりもいません.
神の家では,皆が歓迎されています.皆が祝福されています.皆が神の愛し子です.そこには,偏見や排除を許容するような言葉や態度の余地はありません.
Morton 神父とこのことを分かち合い,このことについて話し合いたいと思うゲイの人,または,その家族の人は,どなたでも,わたしたちの教会へお出でください.
わたしたちは,カトリック教会が[LGBTQ+ に対して]取ってきたと思われる否定的な態度によって過去に為されてきた害悪を正すために,為し得るあらゆることをしなければなりません.より包容的な社会を建設しようとしているほかの人々と協力しなければなりません.


「改めて繰り返す」と言っているのは,既に今年の5月に,やはFacebook,こう告知していたからです:

Very often people in the Catholic Church who are gay feel excluded. Anyone who is gay and feels that they may wish to speak with Fr Morton about this area of their life, please make contact with him. We wish to emphasise in the strongest terms that we are a welcoming and inclusive parish.

カトリック教会のなかでゲイである人々は,排除されていると感ずることが,とても頻繁にあります.ゲイである人で,人生のその領域のことについて Morton 神父と話したいかもしれないと感じている人は,神父と連絡してください.わたしたちは,極めて強い言葉で強調したいと思います:わたしたちは,[LGBTQ+ の人々を]歓迎し,包容する小教区です.

USA の LGBT カトリックのグループ New Ways Ministry は,その blog で,Paul Morton 神父と Saint Bride 教会の包容的な姿勢が高く評価されていることを伝えています.

日本では?せっかくですから,この機会に皆さんにお知らせしましょう.今,浅草教会と上野教会の主任司祭を兼任なさっている晴佐久昌英神父様は,以前お会いしたときに断言なさいました:「わたしが司牧する教会では,LGBTQ+ の人々はいつでも大歓迎です.どんな差別も許しません.そう公に言ってもらって構いません.」

わたしが今までそのことを blog などに明確に書かなかったのは,単に適当な機会を見いだせていなかったからにすぎません.

神の全包容的な愛を実践する晴佐久昌英神父様の全包容的な司牧姿勢を,今や皆さんもどうか広く告げ知らせてください.

ルカ小笠原晋也

2017年7月26日水曜日

小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教


  
Carl Bloch (1834-1890), 山上の説教 (1877), Det Nationalhistoriske Museum, Frederiksborg Slot

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 奇跡 による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ からし種の譬えとパン種の譬え が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 悪を行う者や不法を行う者 を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願


  
Caravaggio, Marie Madeleine en extase (1606), collection privée à Rome
  
わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年717日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち  特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.630日にドイツで,712日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

  
LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

ルカ小笠原晋也
(注:相模原市の知的障害者福祉施設で一年前に起きた事件に関するお祈りは,参加者のひとりの方が共同祈願の際にしてくださったお祈りにもとづいて,付加しました.)

2017年7月11日火曜日

「皆のフェミニズム」のための祈り A prayer for Feminism for Everybody

2017年07月09日日曜日の午後,Chimamanda Ngozi Adichie の2012年12月の Ted Talk に基づく本 We Should All Be Feminists邦訳:男も女もみんなフェミニストでなきゃを材料にした会合 Feminism for Everybody に参加してきました.

その場でたまたま出会った枇谷玲子さんが御自身の blog で発表したレポートを,参照してください.上智大学教授の三浦まりさんや,Adichie の作品を邦訳してきた くぼたのぞみ さんのお話の後は,もっぱら,参加者たちが自身の経験を分かち合うことによる相互的な enlightenment の時間でした.女性たちがそのように率直に分かち合い,肯定し合うのは,大変有意義な経験だろうと思います.

LGBT Catholic Japan 共同代表のひとりであるわたし(ルカ小笠原晋也)としては,LGBTQ 人権擁護活動と feminism との連帯を日本で構築する可能性について考えるために,参加しました.会合の場には LGBTQ にかかわっている人はわたし以外,誰もいなかったようなので,ほかの参加者たちに性差別に関する新たな視点を提供し得たのではなかろうかと思います.

女性たちと LGBTQ の人々が社会生活のなかで経験するさまざまな苦悩や困難の原因は,もっぱら,heteronormative な男の側にあります.それを認めるのが男たちにとって事実上どれほど困難であれ,理論的にはそれは明白です.

feminism の歴史のなかでは,それは,patriarchy[家父長制:男が支配的立場を占める構造]や sexism[性差別:男が女性を差別し,辺縁化する構造]の概念のもとに問われてきました.そして,生得的な生物学的性別を相対化するために,人為的な社会学的性別としての gender の概念が登用されてきました.

さらに,比較的近年 feminism の観点から主題的に論ぜられるようになってきたと思われるのが,sexual harassment[性的いやがらせ],性暴力,性犯罪などの諸現象です.そこにおいて問われるのは,男の「性欲」の問題です.例えば,sexual objectification[性欲対象化:男が女性をもっぱら性欲の対象としてのみ評価し,そのようにのみ扱う態度や行動]の概念に,そのような問題意識が表れています.

精神分析家として,わたしは,それらの問題において根本的に問われるべきものを,phallofascism[ファロファシズム,ファロス・ファシズム]と名づけています.自我理想としての phallus への同一化が,「男である」ことを規定します.その同一化が,male totalitarianism[男性全体主義]と呼ばれ得る社会構造を生み出すと同時に,性的客体としての女性の身体と男の欲望との関繋を規定します.性差別や男の性行動に関する諸問題と諸困難の根本に潜んでいるのは,そのような phallus です.

また,家父長制に関して問われているのは,父の問題です.わたしは,家族制度としての家父長制と区別するために,家父長制の本質を成していたイデオロギーを「家父長主義」(patriarchalism) と呼びます.

関連する語彙に paternalism[干渉主義]があります.ラテン語の pater[父]に由来する語です.家父長制的家族において権力の独占者と見なされる父がほかの家族メンバーの自由や自律性を強権的に侵害するのと同様に,支配と被支配または差別と被差別の構造を有する何らかの集団において,支配者の立場に立つ者が被支配者の立場に置かれた者に対して,たとえ「あなたたちの利害のために」という「善意」にもとづいてではあれ,後者の自由や自律性を侵害するようなしかたで干渉してくるとき,前者は paternalist である,前者の態度は paternalistic である,と批判されます.

果たして「父」は家父長主義的または干渉主義的なものに尽きてしまうのか?そう思えてしまうかもしれません – 特に,キリスト教の「父なる神」がその真理において知られていない場合には.

キリスト教の根本命題のひとつである「神は愛である」は,家父長主義的でも干渉主義的でもない「父」を示唆しています.誰をも排除 (exclude) せず,あらゆる者を包容 (include) する神の愛の働きとしての父の機能です.

精神分析においても究極的に問われているのは,そのような人間の実存構造の要としての父の機能です.

ここでは,これ以上,phallus の問題と父の問題について詳論することはできません.また,ここでは,女性性そのものについて論ずることもしません.

ともあれ,LGBTQ 人権擁護運動と feminism とは,性差別の根本原因である phallofascism に対する批判のために,相互に連帯し得るはずです.そのような連帯は,日本において,支配者層の方向性が全体主義と identitarisme[民族同一性主義]へ向いている今,社会を1945年以前へ逆戻りさせないためにも,おおいに必要であるはずです.どのようにその連帯を具体化し得るかを,今後も考え続けて行きましょう.
 
  
最後に,Feminism for Everybody のために祈りましょう.会場で参加者に配布されたきれいなピンク色のリボン – それを皆,身体や持ち物のどこかに着けました – を自宅に持ち帰ったとき,ふとマリア様の像が目に入ったので,その肩にリボンをかけて,次のように祈りました:

神の母 Maria よ,Feminism for Everybody の参加者と,世界中の feminist すべてのために,ともに祈ってください.あらゆる性差別と性暴力がなくなりますように.すべての男たちが masculine protest と sexual objectification の悪から解放されますように.女性たちが「女であることに内在的な有罪性」の束縛から解放されますように.sexuality や gender にかかわらず,誰もが互いに愛し合えますように.Amen.
Saint Mary, Mother of God, pray with us for all the participants of our meeting "Feminism for Everybody" and for all feminists in the world : May every form of sexism and sexual violence disappear on the Earth ; May every men be liberated from the Evil of masculine protest and sexual objectification ; May every woman be liberated from "sense of guilt inherent in being born female" ; May everybody love each other regardless of sexuality or gender. Amen.

この会合を主催してくださった方々と参加者の皆さんに感謝します.フェミニストたちに天の父の祝福と神の愛の恵みが豊かにありますように!

ルカ小笠原晋也

2017年6月28日水曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教


  

La Vocazione dei primi apostoli (1481-1482), di Domenico Ghirlandaio, alla Cappella Sistina



今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,313-19節で十二使徒が選ばれ,67-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,617-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書1001-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる 「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書601-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 救いの神秘 でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で μυστήριον, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.