2017年8月10日木曜日

ブラジルの司教が「同性愛は神からの賜である」と説教



ブラジル Caicó 教区の司教 Antônio Carlos Cruz Santos は,730日の説教で「同性愛は,神からの賜である」と述べました.それに対する大きな反響を受けて,司教は86日,教区の website 声明を発表しました.そこにおいて彼は,LGBTQ+ の人々の自殺率が高いことを改めて指摘し,「死を惹起する偏見を克服し,命を救うことが,わたしの意図するところである」と述べました.

司教が730日,Caicó 教区の聖アンナ祭を締めくくるミサで行った説教の内容を,我々は,Crux 紙の記事にもとづいて,次のように要約します:

わたし(Cruz 司教)は,あるとき,ラジオで,transgender の人々の高い自殺率に関する研究について聞いた.そして,奴隷制が容認されていた時代の黒人と同様に,今 LGBTQ の人々が被っている社会的な偏見や誤解について考え始めた.

我々の SOGI (sexual orientation and gender identity) は,我々自身が選べるものではない.選択は自由意志において為されるが,自身の SOGI が如何なるものかを我々はあるとき所与として気がつくだけである.

我々は,sexuality を尊厳ある倫理的なしかたで生きることもできるし,逆に,放埒なしかたで生きることもできる.それは,SOGI の如何にかかわらない.

また,WHO は,LGBTQ をもはや精神疾患とは見なしていない.

選択でもなく,疾患でもないなら,信仰の観点においては,LGBTQ であることは神からの賜以外のものではあり得ない.

それに対して,我々が有する偏見は,神からの賜ではない.例えば,奴隷制が容認されていた時代,黒人は人間とは見なされていなかった.黒人には魂は無いと言われていた.それは,偏見のせいであった.

我々は,福音の知恵において,そのような偏見を克服するために跳躍することができた.奴隷制の容認から否定へ,両者を隔てるギャップを飛び越えることができた.まさにそのときのように,我々は,今や,同性愛に対する偏見を克服するために跳躍すべきである.

Papa Francesco は,慈しみをカトリック教義の出発点としたいと思っている.主 Jesus Christ は,慈しみのためにこそ,十字架上で高い代価を支払ってくださったのだ.

以上のような内容の説教に対して,称賛とともに,少なからぬ批判が起こりました.そこで,Cruz 司教は,86日,教区の website 声明を発表しました.そこにおいて司教は,カトリック教会のカテキズム 2358 段(注)を改めて引用しつつ,自殺を引き起こすような偏見を神の慈しみの力動において克服し,人々の命を救うことこそが,彼の意図するところである,と述べています.

(注)カトリック教会のカテキズム 2358 段:「無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.(...) 彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼ら・彼女らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼ら・彼女らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.」

ルカ小笠原晋也

2017年8月9日水曜日

養子に洗礼を授けてもらった同性婚カップルを Papa Francesco が祝福


向かって左から,Alyson (16), Toni Reis, David Harrad, Felipe (11), 
子どもたちを洗礼した神父様,Jessica (14)

Brazil の Curitiba 在住の LGBTQ 人権擁護活動家 Toni Reis 氏は,本年06月04日付で手紙を Papa Francesco へ送り,彼と彼の同性パートナー David Harrad 氏との養子三人(息子ふたりと娘ひとり;ふたりの男の子のうちのひとりと女の子とは同じ両親から生まれた兄弟)が04月23日にやっと洗礼を受けることができたことを知らせました.


「やっと」と言うのも,彼らの子どもたちの洗礼の求めに対して Curitiba 大司教 José Antônio Peruzzo が許可を出すまでに三年もかかったからです.

Reis 氏は,子どもたちの夢は07月07日から13日まで一週間,家族旅行でイタリアに滞在する間に教皇から直接祝福を受けることだ,とその手紙のなかで教皇に伝えました.

残念ながらその夢はかなえられませんでしたが,Reis 氏のもとには07月10日付の Vatican からの返答書簡が国務省総務課補佐官 Monsignore Paolo Borgia の名義で届きました.


 
その手紙のなかで Borgia 神父は,Papa Francesco は Reis 氏の家族に神の恵みが豊かにあるよう祈っている,と述べ,教皇の祝福の意を伝えてきました.

Reis 氏は,彼の教皇宛書簡と Vatican からの返答書簡とを Facebook で公表しました.「養子に洗礼を授けてもらった同性婚カップルを,教皇が祝福した」このニュースは,世界中に報道されました.

カトリック教会の分裂を惹起しないために同性婚を結婚の秘跡として認めるところまでは踏み込まないものの,LGBTQ+ の人々を差別無く歓迎する Papa Francesco の全包容的な司牧姿勢が,改めて確認されました.

わたしたち LGBTCJ も,Papa Francesco にならって,神の全包容的な愛の福音を今後もますます日本社会に宣べ伝えて行きたいと思います.

ルカ小笠原晋也

2017年8月3日木曜日

Scotland の小教区教会が Facebook で LGBTQ 歓迎を表明

Scotland Glasgow 市の Cambuslang 地区にあるカトリック小教区 Saint Bride 教会は,724日,Facebook に「ゲイ歓迎」の表明を投稿しました(この場合,“gay” という語は LGBTQ+ 全部を指す広義において使われていると解釈します):


Fr Paul Morton

Fr Morton wants to repeat again that all gay Catholics are accepted and welcomed in this parish.
Every single human person is loved by God and created to love by Him, this is a fundamental belief of our faith. No one is ever excluded from God’s love or his concern or his care or his plan for them.
In God’s house all are welcome and are the blessed and loved children of God. There should be no place in our language or our attitude which allows for prejudice or exclusion.
Anyone who is gay and who wishes to share or discuss this with Fr Morton please feel free to come to the parish house. Also any family member who wishes to discuss or share this please come along.
We must do everything we can to redress the harm that has been done in the past by the negative stance we seem to have taken up. We must join with others who are seeking to build a more inclusive society.
Morton 神父は,次の告知を改めて繰り返したいと思います:わたしたちの小教区では,ゲイのカトリック信徒は皆,受け容れられ,歓迎されます. 
あらゆる人間は,ひとりひとり,神に愛されています.神により愛されるために創造されています.それは,わたしたちの信仰において根本的に信ぜられていることです.神の愛から排除されている人は,誰ひとりいません.人間に対する神の気づかい,神の配慮,神の計画から排除されている人は,ひとりもいません.
神の家では,皆が歓迎されています.皆が祝福されています.皆が神の愛し子です.そこには,偏見や排除を許容するような言葉や態度の余地はありません.
Morton 神父とこのことを分かち合い,このことについて話し合いたいと思うゲイの人,または,その家族の人は,どなたでも,わたしたちの教会へお出でください.
わたしたちは,カトリック教会が[LGBTQ+ に対して]取ってきたと思われる否定的な態度によって過去に為されてきた害悪を正すために,為し得るあらゆることをしなければなりません.より包容的な社会を建設しようとしているほかの人々と協力しなければなりません.


「改めて繰り返す」と言っているのは,既に今年の5月に,やはFacebook,こう告知していたからです:

Very often people in the Catholic Church who are gay feel excluded. Anyone who is gay and feels that they may wish to speak with Fr Morton about this area of their life, please make contact with him. We wish to emphasise in the strongest terms that we are a welcoming and inclusive parish.

カトリック教会のなかでゲイである人々は,排除されていると感ずることが,とても頻繁にあります.ゲイである人で,人生のその領域のことについて Morton 神父と話したいかもしれないと感じている人は,神父と連絡してください.わたしたちは,極めて強い言葉で強調したいと思います:わたしたちは,[LGBTQ+ の人々を]歓迎し,包容する小教区です.

USA の LGBT カトリックのグループ New Ways Ministry は,その blog で,Paul Morton 神父と Saint Bride 教会の包容的な姿勢が高く評価されていることを伝えています.

日本では?せっかくですから,この機会に皆さんにお知らせしましょう.今,浅草教会と上野教会の主任司祭を兼任なさっている晴佐久昌英神父様は,以前お会いしたときに断言なさいました:「わたしが司牧する教会では,LGBTQ+ の人々はいつでも大歓迎です.どんな差別も許しません.そう公に言ってもらって構いません.」

わたしが今までそのことを blog などに明確に書かなかったのは,単に適当な機会を見いだせていなかったからにすぎません.

神の全包容的な愛を実践する晴佐久昌英神父様の全包容的な司牧姿勢を,今や皆さんもどうか広く告げ知らせてください.

ルカ小笠原晋也

2017年7月26日水曜日

小宇佐敬二神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教


  
Carl Bloch (1834-1890), 山上の説教 (1877), Det Nationalhistoriske Museum, Frederiksborg Slot

今日の福音朗読箇所 (Mt 13,24-43) は,「毒麦の譬え」と呼ばれる譬え話です.

マタイ福音書では,5 - 7章の「山上の説教」で,言葉による教えがなされます.8 - 9章では,癒しの徴 奇跡 による教えが描かれます.そして,10章で,弟子の選びと派遣が行われます.そこでは,派遣に関するさまざまな注意が,他の福音書よりも数多く語られています.次いで,11章で洗礼者ヨハネの弟子たちとの対話,12章でベエルゼブル(悪魔の頭領)に関するファリサイ派との論争と,「誰がわたし(イェス)の母であり,兄弟たちか」の問答が描かれます.そのような経過をたどって,13章で譬え話による教えが語られます.

一連の譬え話による教えの最初が,先週読まれた「種を撒く人の譬え」です.

それに続いて,今日の「毒麦の譬え」が語られています.それはマタイ固有の伝承資料に基づいている,と言って良いでしょう.構造的には,「種を撒く人の譬え」と類似しています.

始めに,イェス様は,毒麦の譬え話を語ります.次いで,種(たね)についての譬えがあとふたつ からし種の譬えとパン種の譬え が挿入され,最後に,譬え話を用いて話す理由と,譬え話の解説が提示されます.

おそらく,「種を撒く人の譬え」と同様に,この「毒麦の譬え」も,もともとはイェス様御自身の教えに属していたでしょう.

おもしろい譬えや興味深い教えは,聞く人の頭のなかにすぐに入り,記憶されます.ある人々は,それを書き残します.そして,いろいろに語り継がれて行きます.イェス様はアラム語で語ったはずですが,それがどこかでギリシャ語に翻訳されます.ついに,イェス様が語ってから50年後ぐらいに,福音書記者たちの手に渡ります.

そのような経過をたどりましたから,内容にもずいぶんと変化が起きたでしょう.譬え話の説明は,後から付け加えられたものです.イェス様が語ってから50年後の時点の教会の解釈と言って良いでしょう.ですから,実は,言葉の色彩がずいぶん変わっています.

イェス様が毒麦の譬えを語った状況を思い浮かべてみましょう.わたしたちの現実のなかには,さまざまな矛盾や不条理があります.自分の利益にもとづいてわがまま身勝手に振舞う人たちがいる.人々を抑圧し,弾圧する者もいる.なぜ神様は黙っておられるのか,なぜ神様は早く裁いてくださらないのであろうか そういう思いが信じる者のなかにも湧き起こってきます.そのような思いを受けとめながら,イェス様は毒麦の譬えを語ったのではないかと思います.

大きなテーマは,神の慈しみです.言うなれば,神様の気の長さです.わたしたちを世の終わりまで待ち続けておられる根気強い神様の姿が,描かれています.

譬え話の最後の部分で,毒麦 悪を行う者や不法を行う者 を良い麦から分けるという裁きのテーマが描かれています.しかし,この人は地獄,あの人は天国というような裁きの視点から物事を考えるのは,実は,思考方法としては非常に幼いものです.

イェス様のなかには,そのような裁きの考え方は,実は,ありません.

イェス様は,こう教えています:わたしたちは,ひとりひとり,神様の愛し子である.しかし,まだ赤ちゃんで,右も左も分からない,良いも悪いも分からない.そのような幼子として,わたしたちは世に置かれています.

神様の赤ちゃんは,神様の手のなかで,神様の恵みのなかで,育まれ,育てられて行きます.神様は,良いものは,より豊かな実りとして実現して行くよう,悪いものは,それを清め,新たにし,改めて行くよう,そのような育て方をなさっておられます.

わたしたちひとりひとりのなかに,善いものも悪いものも含まれています.神様が始められた善い業(わざ)は,必ず善いものとして実現して行きます.悪いものは,清められます.火で清める「精錬」のイメージです.

神様は,清めをとおして新たにしてくださいます.良いものはますます豊かになるように,恵みを与え続けてくださいます.わたしたちひとりひとりが神の子として実現して行くことを望み続けておられます.

そこにこそイェス様のだいじな理解,だいじな教えがある,と言ってよいでしょう.

神様の慈しみと忍耐というイェス様の教えに対して,50年後の教会のなかには「裁き」の発想が,解釈として生まれてきました.ある意味で,非常に興味深いことです.

その50年間に何があったか?ユダヤ・ローマ戦争の結果,ユダヤは国としては滅びました.そして,キリスト教会が誕生します.

ユダヤ・ローマ戦争における激しい迫害のなかで,多くの選別と裁きが行われた そのような理解が当時の教会のなかにあったのではないのか,と察せられます.

生き残った教会は,神様の栄光のなかでますます輝いて行く そういう未来への展望がうかがえます.ユダヤ人の滅亡と言ってもいいようなユダヤ・ローマ戦争の災難をくぐり抜けることができたがゆえに,生き残ったキリスト教徒たちは,特別に評価されている そのような思いが読み取れます.

もとのイェス様の「神の慈しみ」の教えから,50年後の教会の「裁き」の解釈へ その転換には歴史的な背景がある.毒麦の譬え話は,そのことを考えさせてくれます.

わたしたちは,聖書のテクストを読んでいくとき,どう読んで行くか.

神の慈しみと忍耐をしっかり抱きとめましょう.わたしたちひとりひとりが神の愛する子として実現されて行くために,わたしたちは,さまざまな苦難を乗り越えて成長して行くように,恵みのなかに置かれています.その恵みを受け取りながら,神の憐れみと慈しみと忍耐にわたしたち自身を委ねる それが,とてもだいじな姿勢ではないかと思います.

と同時に,今わたしたちが生きているということ,今ここに存在しているということ,さまざまな苦難を乗り越え,さまざまな排除を乗り越えて,生き残っているということ,そして,そこに神様の栄光に与る道が開かれて行くということ そのことも大切なメッセージとして受けとめて行きましょう.

聖書は,福音書は,歴史的な書物です.イェス様が語り,教え,十字架に架けられ,復活する その出来事から福音書が書かれるまでに,50年の時がたっています.その間,教会は,いろいろな経験をとおして,イェス様の言葉を,イェス様の出来事を,かみしめ直し,成長し続けます.

福音書が書かれるまでの50年にそうであったように,イェス様の出来事から今日に至る二千年間,わたしたちは同じように成長の道を歩んでいるのではないかと思います.

今日の困難を乗り越えながら明日へ向かい,神様が善しとして置かれたものは必ず善いものとして実現して行くよう,わたしたちが信仰によって日々を歩み続けて行くことができますように.

忍耐と慈しみと憐みに富む神が,わたしたちを「わたしの愛する子」と呼び,ここに置いてくださっている そのことの確かさを,わたしたちが受けとめ,「あなたはわたしの愛する子だ」という神の言葉を生きて行くことができますように.

共同祈願,LGBT 特別ミサ,2017年07月23日

2017年07月23日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願


  
Caravaggio, Marie Madeleine en extase (1606), collection privée à Rome
  
わたしたちの LGBT 特別ミサのために祈りましょう.昨年717日,LGBT 特別ミサの第一回が行われました.日本のカトリック教会の歴史のなかで画期的な出来事です.今日もこの御ミサを司式してくださっている小宇佐敬二神父様を始め,わたしたちを祝福してくださった神父様たち  特に,司式してくださった関谷義樹神父様,晴佐久昌英神父様,Sali Augustine 神父様,Juan Masiá 神父様 ‒ に感謝します.場所を提供してくださっているカトリック関係諸施設に感謝します.わたしたちの活動を支えてくださっているすべての方々に感謝します.そして,愛の律法を教会の礎となさった主よ,あなたに感謝します.これからも,あらゆる性的少数者を祝福し,あなたの愛の恵みを皆に豊かに注いでください.カトリック教会を,あらゆる人々を歓迎し得るまことの神の愛の家にしてください.

同性カップルの愛と結婚のために祈りましょう.630日にドイツで,712日にマルタで,同性婚法制化が国会で議決されました.特にマルタは,2015年に同性婚が国民投票で認められたアイルランドとともに,国民の大多数がカトリックの国です.無限の愛の源である主よ,あなたは,異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うことを可能にしてくださいます.あらゆるカップルの絆を,あなたの愛のしるしとして,祝福してください.いまだに同性婚を認めることができないでいるカトリック教会を,すべてを包容するあなたの愛に従うよう導いてください.日本でも同性婚が法制化されるよう願うわたしたちを,慈しみ深く支えてください.

  
LGBT 自治体議員連盟のために祈りましょう.今月6日,わたしたちの友人,文京区議,前田邦博さん,世田谷区議,上川あやさん,中野区議,石坂わたるさん,豊島区議,石川大我さん,入間市議,細田智也さんら5人が発起人となり,日本の政治史上,画期的なことに,LGBT 自治体議員連盟が設立されました.特に,前田邦博さんは,記者会見の場で come out し,15年前に同性パートナーが亡くなったときの悲しい体験について語りました.慈しみ深い主よ,前田邦博さんの喪の悲しみを優しく癒してください.勇気をふるって立ち上がった LGBT 自治体議員連盟の人々を祝福してください.その活動が,うなじ頑ななる日本社会に変化をもたらし得るよう,お導きください.

引きこもっている人々のために祈りましょう.わたしたちの同胞のなかには,LGBTQ であるがゆえに学校や社会になじめず,引きこもりがちな生活をおくっている人々がいます.すべてを包容する愛である神よ,彼らの思いを聴き取ってください.彼らの苦悩を癒してください.彼らの命を慈しみ深く見守ってください.

昨日が記念日であったマグダラのマリアを思って祈りましょう.主よ,あなたは,娼婦として差別されていたマグダラのマリアに復活した御自身を初めて顕し,彼女を使徒たちの使徒として教会の起源に位置づけました.彼女と同様,わたしたちも,あらゆる差別を無効にするあなたの愛の証人にしてください.

7月26日は,相模原市の知的障害者福祉施設で起きた無差別殺傷事件の一周忌です.喪に泣く人々とともにいてくださる主よ,亡くなった方々とその御家族の涙をあなたの優しい指で拭ってください.傷ついた人々を慰めてください.障碍を持つ人々をあなたの愛の被造物として社会が全面的に受け容れるよう,人々を導いてください.あらゆる差別の壁を世界から取り除いてください.犯人が自身の過ちと罪を認め,悔悛するよう,彼のもとに聖霊を使わしてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

ルカ小笠原晋也
(注:相模原市の知的障害者福祉施設で一年前に起きた事件に関するお祈りは,参加者のひとりの方が共同祈願の際にしてくださったお祈りにもとづいて,付加しました.)

2017年7月11日火曜日

「皆のフェミニズム」のための祈り A prayer for Feminism for Everybody

2017年07月09日日曜日の午後,Chimamanda Ngozi Adichie の2012年12月の Ted Talk に基づく本 We Should All Be Feminists邦訳:男も女もみんなフェミニストでなきゃを材料にした会合 Feminism for Everybody に参加してきました.

その場でたまたま出会った枇谷玲子さんが御自身の blog で発表したレポートを,参照してください.上智大学教授の三浦まりさんや,Adichie の作品を邦訳してきた くぼたのぞみ さんのお話の後は,もっぱら,参加者たちが自身の経験を分かち合うことによる相互的な enlightenment の時間でした.女性たちがそのように率直に分かち合い,肯定し合うのは,大変有意義な経験だろうと思います.

LGBT Catholic Japan 共同代表のひとりであるわたし(ルカ小笠原晋也)としては,LGBTQ 人権擁護活動と feminism との連帯を日本で構築する可能性について考えるために,参加しました.会合の場には LGBTQ にかかわっている人はわたし以外,誰もいなかったようなので,ほかの参加者たちに性差別に関する新たな視点を提供し得たのではなかろうかと思います.

女性たちと LGBTQ の人々が社会生活のなかで経験するさまざまな苦悩や困難の原因は,もっぱら,heteronormative な男の側にあります.それを認めるのが男たちにとって事実上どれほど困難であれ,理論的にはそれは明白です.

feminism の歴史のなかでは,それは,patriarchy[家父長制:男が支配的立場を占める構造]や sexism[性差別:男が女性を差別し,辺縁化する構造]の概念のもとに問われてきました.そして,生得的な生物学的性別を相対化するために,人為的な社会学的性別としての gender の概念が登用されてきました.

さらに,比較的近年 feminism の観点から主題的に論ぜられるようになってきたと思われるのが,sexual harassment[性的いやがらせ],性暴力,性犯罪などの諸現象です.そこにおいて問われるのは,男の「性欲」の問題です.例えば,sexual objectification[性欲対象化:男が女性をもっぱら性欲の対象としてのみ評価し,そのようにのみ扱う態度や行動]の概念に,そのような問題意識が表れています.

精神分析家として,わたしは,それらの問題において根本的に問われるべきものを,phallofascism[ファロファシズム,ファロス・ファシズム]と名づけています.自我理想としての phallus への同一化が,「男である」ことを規定します.その同一化が,male totalitarianism[男性全体主義]と呼ばれ得る社会構造を生み出すと同時に,性的客体としての女性の身体と男の欲望との関繋を規定します.性差別や男の性行動に関する諸問題と諸困難の根本に潜んでいるのは,そのような phallus です.

また,家父長制に関して問われているのは,父の問題です.わたしは,家族制度としての家父長制と区別するために,家父長制の本質を成していたイデオロギーを「家父長主義」(patriarchalism) と呼びます.

関連する語彙に paternalism[干渉主義]があります.ラテン語の pater[父]に由来する語です.家父長制的家族において権力の独占者と見なされる父がほかの家族メンバーの自由や自律性を強権的に侵害するのと同様に,支配と被支配または差別と被差別の構造を有する何らかの集団において,支配者の立場に立つ者が被支配者の立場に置かれた者に対して,たとえ「あなたたちの利害のために」という「善意」にもとづいてではあれ,後者の自由や自律性を侵害するようなしかたで干渉してくるとき,前者は paternalist である,前者の態度は paternalistic である,と批判されます.

果たして「父」は家父長主義的または干渉主義的なものに尽きてしまうのか?そう思えてしまうかもしれません – 特に,キリスト教の「父なる神」がその真理において知られていない場合には.

キリスト教の根本命題のひとつである「神は愛である」は,家父長主義的でも干渉主義的でもない「父」を示唆しています.誰をも排除 (exclude) せず,あらゆる者を包容 (include) する神の愛の働きとしての父の機能です.

精神分析においても究極的に問われているのは,そのような人間の実存構造の要としての父の機能です.

ここでは,これ以上,phallus の問題と父の問題について詳論することはできません.また,ここでは,女性性そのものについて論ずることもしません.

ともあれ,LGBTQ 人権擁護運動と feminism とは,性差別の根本原因である phallofascism に対する批判のために,相互に連帯し得るはずです.そのような連帯は,日本において,支配者層の方向性が全体主義と identitarisme[民族同一性主義]へ向いている今,社会を1945年以前へ逆戻りさせないためにも,おおいに必要であるはずです.どのようにその連帯を具体化し得るかを,今後も考え続けて行きましょう.
 
  
最後に,Feminism for Everybody のために祈りましょう.会場で参加者に配布されたきれいなピンク色のリボン – それを皆,身体や持ち物のどこかに着けました – を自宅に持ち帰ったとき,ふとマリア様の像が目に入ったので,その肩にリボンをかけて,次のように祈りました:

神の母 Maria よ,Feminism for Everybody の参加者と,世界中の feminist すべてのために,ともに祈ってください.あらゆる性差別と性暴力がなくなりますように.すべての男たちが masculine protest と sexual objectification の悪から解放されますように.女性たちが「女であることに内在的な有罪性」の束縛から解放されますように.sexuality や gender にかかわらず,誰もが互いに愛し合えますように.Amen.
Saint Mary, Mother of God, pray with us for all the participants of our meeting "Feminism for Everybody" and for all feminists in the world : May every form of sexism and sexual violence disappear on the Earth ; May every men be liberated from the Evil of masculine protest and sexual objectification ; May every woman be liberated from "sense of guilt inherent in being born female" ; May everybody love each other regardless of sexuality or gender. Amen.

この会合を主催してくださった方々と参加者の皆さんに感謝します.フェミニストたちに天の父の祝福と神の愛の恵みが豊かにありますように!

ルカ小笠原晋也

2017年6月28日水曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教


  

La Vocazione dei primi apostoli (1481-1482), di Domenico Ghirlandaio, alla Cappella Sistina



今日の福音朗読箇所を含むマタイ福音書10章では,十二使徒の選びの後,すぐに,彼らの派遣が描かれます.

三つの共観福音書の基礎となっているマルコ福音書では,313-19節で十二使徒が選ばれ,67-13節で彼らは派遣されます.使徒たちが留守の間のイェスの活動については述べられず,617-29節では,洗礼者ヨハネが無残な死を遂げたことが述べられています.「ヨハネの弟子たちは師の遺体を引き取って,葬った」何となくあっさりと洗礼者ヨハネの事件に幕が引かれているような感じがします.

弟子の派遣と,洗礼者ヨハネの殺害と それらの扱い方が,マルコとマタイの間では,あるいは,ルカとマタイの間では,異なっている,という印象を受けます.

マタイ福音書10章では,十二使徒の派遣に続いて,16-25節で迫害の予告がなされます.いたる所で多くの迫害を受け,場合によっては殺されるかもしれない そのように,殉教の予告までなされます.そして,それに続いて,今日の福音朗読箇所(26-33節)の励ましの言葉が述べられて行きます.

マタイは,マルコよりも,十二使徒の派遣を,全世界へ向けられた教会の宣教のための派遣として,より意識しているのではないか,と思われます.ルカ福音書1001-20節では,そのような意識のもとに,72人の弟子たちの派遣が描かれています.

マタイ福音書が書かれた時代,ユダヤでは,第一次ユダヤ・ローマ戦争(西暦66-73年)は決着し,イェルサレムの神殿は破壊され,ユダヤという国も失われています.他方,未来には洋々たる世界の展望が開かれています.そのような岐路に立って,教会を励まし,さまざまな艱難を乗り越えて福音を述べ伝えて行く その使命が,信じる者たちに託されます.

今日の福音朗読箇所の冒頭で,イェスは言います:「人々を恐れてはならない」.この「人々」は,迫害者たちのことです.そして,迫害の真相が暴露されることになる 「覆われているもので現わされないものはなく,隠されているもので知られずに済むものはない」.

「隠されているもので知られずに済むものはない」.マタイ福音書601-08節と16-18節で,施し,祈り,断食の善行を行うときは密かに行いなさい,とイェスは教えています.隠されているもののなかにおられる神,あるいは,隠されたものを見ておられる神 そのような神が報いてくださる.そういう表現が出てきます.

また,「隠されているもの」は,ダビデの罪 (2 S 11,02 - 12,15) を思い起こさせます.とてつもない罪を犯したダビデ王を,神の言葉を携えた預言者ナタンが,叱責する.ナタンをとおして,神はダビデに言う:「あなたが隠れた所で犯した罪を,わたしは白日のもとに曝す」.人間は,罪を犯すとき,隠れて行います.あるいは,隠されたものとしてそれを行います.しかし,隠されたことは暴露されます.さらに,ダビデの内面がさらけ出され,ダビデはそれを深く見つめる その機会が,彼に与えられます.神の叱責の言葉を聞いて,ダビデは「わたしは罪を犯しました」と素直に認め,ナタンの前にひざまずきます.

人間が犯す罪は,根本的には,己れが世界の中心に立ち,そのまんなかから世界を支配しようとする自己中心性に存します.己れのさまざまな力や能力によって,力無き他者を支配し,収奪し,あるいは,排除しようとする.そのような縦構造の社会が生み出されます.

この縦構造社会を,イェス様は鋭く批判します.旧約聖書のなかでも,それは預言者たちの批判の的でした.

神様の望む世界は,平和な世界です.平和であるためには,平らかであること,皆が平等であること,ひとりひとりの尊厳がきちんと守られること,そして,それによって誠実な関わりが生み出されること,そのようなことが必要です.それが,預言者たちの求めたものです.

そのことを実現するために,新しい命が創造されて行きます.新たな命の創造が約束され,そして,果たされて行きます.

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを,明るみで言いなさい.耳打ちされたことを,屋根の上で言い広めなさい」,そうイェスが弟子たちに語ったとき,救いの神秘はまだ実現していませんでした.

イェスの磔刑と復活の出来事をとおして,初めて,十字架の意味は何であるか,その裏にあるもの,その奥にあるものは何であるか,復活と聖霊の注ぎの奥にあるものは何であるか それを,教会は,信じる者は,経験して行きます.

古い人が死に,新しい人が生まれる;神の命を生きる;神の愛を,神の赦しを,神の憐れみを,神の慈しみを,生きる;新しい命の創造が自分自身のうちに起こる それを,経験します.

暗闇で語られたこと,それは神秘 救いの神秘 でした.耳打ちされたこと,それも救いの神秘でした.しかし,十字架と,復活と,聖霊の注ぎをとおして明らかにされたことは,神秘をはるかに超えた恩恵,すなわち sacramentum[秘跡]です.

その喜びを全世界に持って行くことが,使命として教会に託されています.

この世では,人間の力が支配しています.軍事力,経済力,あるいは,教育で得た力 さまざまな力の支配が,今でもまだ当たり前のようにまかり通っています.その支配構造において,排除された弱い者,小さな者,貧しい者は,踏みにじられ,隅に追いやられ,あるいは,底辺で苦しんでいる.

世界のそのような上下関係の構造をひっくり返す もしそれが起これば,上部構造を担う者たちは,大慌てで,下の者たちを迫害する.

しかし,ひっくり返そうとする力は,人間の力ではありません.神の力です.神の無条件的な愛と慈しみ,限り無い共感と憐み,際限の無い赦し それが,世界をひっくり返します.

それが,神の国の完成です.そこに向かって,教会は,二千年来,そして,今も,働き続けています.そこに,わたしたちの大きな役割と使命がある,と思います.

わたしたちは,ひとりひとり,神様にとって,かけがえのない愛し子です.まだ赤ちゃんで,右も左も分からないかもしれない.神様に向かって走って行くこともできない.せいぜい,ハイハイして行くことぐらいしかできないかもしれない.それでも,父である方に向かって顔を上げ,父である方に向かって喜びの微笑みを投げかける それだけでも,十分な証しです.

わたしたちは,貧しく,小さな者です.と同時に,神様にとって宝物です.そのことを,イェス様は教えてくれました.そして,それは確かであることを,あの十字架の姿をとおして,復活の姿をとおして,さらに,彼の息吹を注いでくれることによって,わたしたちに示してくれました.

その命のなかを生きることをとおしてわたしたちに湧きあがる喜びが,その確かさを世に証しするものとなります.

「神秘」は,ギリシャ語で μυστήριον, ラテン語で mysterium です.神秘を人間の言葉や行為によって解き明かすことはできません.救いの神秘が恵みとして経験されるとき,それを sacramentum[秘跡]と呼びます.

聖霊によって神の子として新しく生まれる その洗礼の秘跡によって新たにされたわたしたちは,聖霊の豊かな賜を受けながら,日々,聖体の秘跡によって養われ続けて行きます.

このパンがキリストの体であることを,わたしたちは論証することはできません.しかし,このパンをいただいて,わたしたちのなかに新たに注がれるエネルギーを,わたしたちは実感し,それを表現して行くことができる.それが,秘跡と呼ばれる神秘です.

わたしたちは,ひとりひとり,神様のかけがえのない赤ちゃんです.いたらぬ所,足りない所は数多くあるけれど,互いに補い合いながら,互いに支え合いながら,互いを受容し合って行くことができます.

わたしたちがその愛の賜のなかを歩み続けて行くことができますように.


共同祈願,2017年06月25日,LGBT 特別ミサにて

2017年06月25日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願


 
La Pentecôte (1732) par Jean II Restout, au Musée du Louvre


LGBT Pride Month のために祈りましょう.今から48年前,19696月に起きた Stonewall 事件を記念するために,今月は LGBT Pride Month として祝われています.日本でも先月,Tokyo Rainbow Pride が祝われました.主よ,差別と自己否定に苦しむわたしたちが社会に対して抗議し,自身に誇りを取り戻すために祭を祝うとき,慈しみ深くわたしたちを祝福してください.わたしたち皆を,神の愛し子として,憐れみ深く,あなたの懐に受け容れてください.

主の恵みに感謝して,祈りましょう.復活節が終わった後,今月は,多くの記念日が祝われました 聖霊降臨,三位一体,キリストの聖体,イェスの御心,そして,昨日は洗礼者ヨハネの誕生.さらに,四日後には,聖ペトロと聖パウロの記念日も祝われます.主よ,それらをとおして与えられるあなたの恵みに感謝します.そして,主よ,お願いします:誰をも排除せず,すべての者を包容するあなたの愛を,聖霊の恵みとして,わたしたち皆のうえに注いでください.

同性パートナーシップのために祈りましょう.今月一日,札幌市で,政令指定都市としては全国で初めて,同性パートナーシップを公に証明する制度が開始されました.そのような制度がより多くの地方自治体に広がって行くことが,日本における同性婚の法制化に繋がって行くかもしれない,とわたしたちは期待しています.異性どうしであれ,同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に愛し合うとき,それは,まぎれもなく,神の愛の恵みのしるしです.無限の愛の源である主よ,世界中の同性カップルの絆を,あなたの愛で祝福してください.そして,わたしたちのカトリック教会を,全包容的なあなたの愛に従うよう,導いてください.

日本においても世界においても LGBT-phobia の犠牲になった人々のために祈りましょう.今月12日は,Florida Orlando gay club Pulse 49人の命が奪われた事件の一周忌でした.チェチェン共和国では LGBT に対する迫害が続いています.一橋大学アウティング事件の裁判も続いています.憐れみ深い主よ,LGBT-phobia の犠牲者すべての涙をあなたの優しい御手でぬぐい,あなたのみもとで皆に永遠の安らぎを与えてください.少数者を嫌悪し,排除しようとする者たちの頑なな心を,あなたの愛へ開かせてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができなかった同胞たちとその御家族のために祈りましょう.慈しみ深い主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

2017年5月31日水曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2017年5月28日,LGBT 特別ミサにて

2017年5月28日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教


Rembrandt, Himmelfahrt Christi
 
昔の典礼では わたしが子供のころも ,復活の主日から40日めの木曜日が,主の昇天の祝日とされていました.その日は,ミサのなかで福音書の朗読が終わると,復活のロウソクの火が消されました.主が天へ昇って行き,地上にいなくなったことの象徴です.

この「40日め」は,第一朗読で読まれた使徒言行録でルカが記しているスケジュールのものです.主の昇天の「いつ,どこで」に関しては,四つの福音書の記事にいろいろな相違があります.

マルコ福音書には,そもそも昇天の記事はありません.イェスの墓を訪れた婦人たちは「ガリラヤへ行け」という天使の命令に恐怖を感じた (16,8) という言葉で,福音書は唐突に閉じられます.

マタイ福音書 (28,16-20) では,弟子たちは,指定されたガリラヤの山へ行き,復活したイェスに出会います.イェスがその山から昇天したのかどうかは,福音書の記事からはよくわかりません.が,ともあれ,その場面は,おそらく,復活の主の顕現の最後の出来事として記されています.

山の頂で復活の主と出会う 人間は,山へ登って行き,天と地との接点である山頂で主と出会う ということは,主は山頂よりももっと高いところから来られたのだ... そのようなイメージが福音記者マタイのなかにあるのではないか,と思います.

ヨハネ福音書では,週の最初の日の朝早く,イェスの墓が空(から)であることが確認されます.その空の墓のところで,マグダラのマリアは復活の主に出会います.マリアがイェスにすがりつくと,「すがりつくのはよしなさい.わたしは,まだ父のもとへ昇っていない」とイェスは答えます.同じ日の夕方,弟子たちも復活の主と出会います.主は,弟子たちに息を吹きかけ,「聖霊を受けなさい」と言います.ヨハネ福音書では,復活と昇天と聖霊降臨が一日の出来事として描かれているわけです.

ルカは,使徒言行録のなかで,主の昇天を復活の主日から40日めの出来事と記しています.40は,イェスが荒れ野でサタンの誘惑を経験した40日であり,出エジプトでイスラエルの民が荒れ野を旅した40年でもあります.ルカは,40という数の象徴性にこだわりながら,五旬節,7週めの祭りの日を聖霊降臨の日,教会の誕生日としたかったのではないか,と思います.

四人の福音記者は各々の神学にしたがって主の昇天の場所や日取りを記しているので,いつどこで何があったかは,歴史的な事実としてはまったくわかりません.教会は,ルカのスケジュールに則って典礼暦を作っています.その方が典礼のために都合が良いからでしょう.

主の昇天.天に挙げられる.この「挙げられる」という言葉が,非常に重要なポイントになります.

その発端は,第二イザヤ書[注:イザヤ書は三部に分けられる 第一部は 1-39章,第二部は40-55章,第三部は56-66章]のなかで歌われる「主のしもべの歌」[注:第一歌 42,1-9 ; 第二歌 49,1-12 ; 第三歌 50,4-9 ; 第四歌 52,13 - 53,12 ; 第五歌 61,1-3]のうち第四の歌の最初の部分です:「見よ,わたしのしもべは栄える.栄光を受け,高く挙げられる」(Es 52,13).

高く挙げられる.「高挙」とも言います.はるかに高く挙げられ,崇められる.そこには,三つの側面があります:十字架に挙げられる,死者のうちから挙げられる,父の右の座に挙げられる.十字架,復活,昇天 それら三つの「高く挙げられる」は,ひとつの出来事の三つの側面です.そのことを理解するのが非常に大切です.そして,何のために,三つの「高く挙げられる」十字架,復活,昇天 の出来事が起こり,書き記されたのか,その意味がとても大事です.

十字架は,わたしたちの罪を告発します.わたしたちは,自分の罪をみづから引き受け,贖い,自身を死へ引き渡します.そして,その贖いをとおして,罪を清めていただきます.そこに,十字架の意味があります.

復活は,死を乗り超えて,新しい命のもとに,神の子として,立ち上がらせていただくことです.

そして,そのように立ち上がらせていただいた者は,天の父の右の座へまで引き上げていただけます.

イェス様は,その道を最初に行きました.十字架のイェス,復活のキリスト,昇天のキリスト.その道を,わたしたちも皆が歩んで行きます.

その道は,イェス様自身にとっては苦難の道でした.しかし,その道を,イェス様はわたしたちのために整えてくださいました.主が整えてくださった道は,平和で安全です.

出エジプトでイスラエルの民が経験する荒れ野の旅では,荒れ野は死の場所です.食べ物も水も無い.燃える毒蛇がいる.サソリもいる.そのような死の世界をさまよい歩く それが,わたしち人間の現実です.しかし,そこに,神様が整えてくださった道が敷かれます.その道は,平和であり,安全です.

死を打ち砕き,死を乗り超えて,イェス様が造ってくださった道 そこへ,わたしたちは招かれています.命の道 イェス様御自身がその道です をとおって,父のもとへ,父の家へ帰る.それが,イェス様がわたしたちに伴ってくださるわたしたちの旅路です.

イェス様は,先頭に立ってその道を切り開いてくださいました.後に続くわたしたちは,平和で安全な道を歩んで行くことができます.そこに,主の昇天の大事な意義が込められています.

今日の第二朗読のなかで,聖パウロはこう言っています:「神は,キリストを,天において御自分の右の座に着かせ,すべての支配,権威,勢力,主権の上に置き」ました,そして,「キリストを,すべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」.

この世のあらゆる力,あらゆる権威,あらゆる勢力,あらゆる主権 それらを凌駕したものとして,父の右の座におられるキリストの位置が描かれています.そのような位置にいるキリストは,信じる者の頭であり,教会はキリストの体である 聖パウロはそのように理解しています.

先日,アメリカの Trump 大統領が,Papa Francesco を訪問しました.いつも何を言い出すかわからず,どなったり怒ったりしている Trump さんが,教皇の前では,借りてきた猫のようにおとなしく,緊張していました.Francesco は,彼の緊張をあっという間に解いてやりました.そして,おそらく自分に対して激しい感情を持っているであろう相手を受容して行く姿勢を,見せてくれました.

天の父の右の座に在ることの権威 それは,父である神の愛にもとづく力です.父なる神は,愛する力を,赦す力を,受容する力を,イェスに権威として授けます.その権威に基づいて,愛の力にもとづいて,復活のキリストは,わたしたちの頭であるわけです.その愛の権威は,わたしたちひとりひとりを,かけがえのない神の子どもとして愛してくださいます.ですから,誰もが神と等距離にあります.

人間の世界では,力のある者が,上位を占め,下部構造をさまざまな形で支配し,収奪し,略奪します.力の構造が,人間世界を覆っています.そのような力の構造,力の支配を打ち破って,愛の支配を打ち立てていくこと それが,キリストのわざです.

キリストの権威はどのようなものか?イェス様は,十字架上のお姿をとおして,愛と赦しと共感と慈しみのすべてを込めて,わたしたちを清める贖いを成し遂げてくださいました.愛の力をとおして,わたしちを新しい命へ招き,聖霊による洗礼をとおして,わたしたちを神様の子どもにしてくださいます.そのために,御自分の存在のすべてを食物としてわたしたちに与え続けてくださいます.キリストの愛の力は,何にも増して強いものであって,何ものもこれに打ち勝つことはできません.

わたしたちは,神の命のなかへ,それによって養われるために,招かれています.父の右の座,キリストと同じ座へ招かれています.それが,わたしたち信じる者の姿であるということを,もう一度しっかりと受けとめ直して行きたいと思います.

父の右の座へ至る道を整えてくださったイェス様は,愛すること,赦すこと,共感し合っていくこと 哀れみと慈しみとを,わたしたちに注ぎ続けてくださっています.わたしたちも,主の招きに応えて,互いに大切にし合って行くことができますように,支え合って行くことができますように,受容し合って行くことができますように.

命をもっと豊かに育むために今日もわたしたちの糧としてわたしたちのもとに訪れてくださる主の命を,しっかりと受けとめ,わたしたちを養ってくださる大事な糧として,いただきましょう.

復活のキリストは,今,わたしたちのただなかに立ち,今,わたしたちを天の父の右の座へ招き,今,わたしたちを養うために御自分の全存在を食物としてわたしたちに与えてくださいます.復活のキリストを喜びのうちに迎え,喜びのうちにキリストとともに歩んで行くことができますように.
 

共同祈願,2017年5月28日,LGBT 特別ミサにて

2017年5月28日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願



今月6日と7日に行われた Tokyo Rainbow Pride の成功を主に感謝して,祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで差別され,苦悩する人々を,慈しみを以てかえりみてくださいます.あなたの愛で勇気づけられた LGBT 同胞たちが,今年も Tokyo Rainbow Pride におおぜい集い,ともに楽しみ,喜びを分かち合うことができました.わたしたちも,多くの新たな出会いに恵まれ,あらゆる人を包容するあなたの愛を証しすることができました.そのように取りはからってくださった主よ,あなたに感謝します.祭典の成功のために多大な努力を払った主催者たちと,すべての参加者たちを,改めて祝福してください.来月世界各地で予定されているさまざまな LGBT の祭典も,慈しみ深く見守ってください.これからも,わたしたちが不安や悲しみのなかにあるとき,あなたの愛でわたしたちを支え続けてください.

今月7日の International Family Equality Day と,17日の International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia は,ともに,「愛が家族を作る」を共通標語として祝われました.愛しあう家族のために祈りましょう.そして,差別と迫害に苦しむ同胞たちのために祈りましょう.主よ,家族の原理は家父長主義ではなく,あなたの愛に存します.LGBT のカップルが作る家族,LGBT の子を擁する家族,さまざまな形態の家族をその多様性において祝福し,慈しみ深く見守ってください.また,さまざまな差別と迫害に苦しむ LGBT 同胞たちと子どもたちの涙を,あなたの優しい指でぬぐってください.差別し,いじめ,迫害する心ない者たちを,あなたの愛へ目覚めさせてください.

今月22日が記念日であった Harvey Milk のために祈りましょう.彼は,1930522日に生まれ,LGBT 人権擁護のパイオニアとして San Fransisco で活躍し,1978年,今から39年前に暗殺されました.主よ,LGBT に対するあなたの愛を勇敢に証言した Harvey Milk を,慈しみ深くあなたの胸に迎え入れ,永遠の安らぎのうちに彼を抱き続けてください.

今月24日,中国のカトリック信者のために世界中で祈るよう呼びかけられていた日,台湾で同性婚禁止を憲法違反とする最高裁判決が発表されました.台湾の同胞たちと喜びを分かち合って祈りましょう.また,中国の同胞たちのために祈りましょう.主よ,結婚の権利を含むあらゆる人権に関して,台湾でも日本でも世界のほかの国々においても,sexuality を理由に不平等が容認され続けることのないよう,人々を導いてください.また,中国の同胞たちを,あなたの愛で支えてください.中国のカトリック教会を,わたしたちのローマカトリック教会との和解へ導いてください.

さまざまな事情で今日,わたしたちとともにこの御ミサに与ることができない同胞たちとその御家族のために祈りましょう.主よ,あなたは,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みを,今日来れなかった人々にも豊かに注いでください.また,今日ここに集う幸せを恵み与えられて感謝するわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができるよう,主よ,常にわたしたちとともにいてください.

ルカ小笠原晋也

2017年5月30日火曜日

LGBT-phobia の克服と食のタブーの克服 – 神の愛の福音を伝えるために必要なこと

5月17日は International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia (IDAHOT) でした.「LGBT 差別に反対する国際記念日」とでも翻訳し得るでしょうか.しかし,« -phobia » は,むしろ,差別を動機づける「嫌悪」を指しています.

日本語で「生理的嫌悪感」と言います.その直訳に相当する表現は,英語やフランス語には見当たりません.「生理的に嫌悪感を感じさせる」は,英語では disgusting, nauseating, フランス語では dégoûtant, nauséabond, ドイツ語では widerlich, ekelhaft などと言うでしょう.nauseating, nauséabond, ekelhaft は,文字どおりには「嘔気を催させる」です.

食生活に関するタブーを有する宗教があります.それらの宗教の信者たちにとって,禁止された食材は吐き気を催させるでしょう.例えば,ユダヤ教徒やイスラム教徒は,我々が豚肉を喜んで食べているのを見て,「生理的嫌悪感」を感ずるでしょう.

或る民俗学者が,こう教えてくれました:キリスト教がユダヤ民族の宗教から Ecclesia Catholica(普遍的教会)へ変身するためには,食のタブーの克服は決定的な条件のひとつだったのではないか.

使徒言行録 10,9-15 で,こう物語られています:空腹を覚えた Petrus の目の前に,天から大きな布のようなものが降りてくる.そのなかには,Moses の律法で食べることを禁止された鳥獣類すべてが入っている.天の声は Petrus に「食べろ」と命ずる.彼は,そのような「下品なものも不浄なものも [ κοινὸν ἢ ἀκάθαρτον, commune et immundum ] 一度も食べたことがありません」と言って拒絶する.声は「神が浄めたものを下品と言うな」と言って,彼を叱る.

「下品かつ不浄」な食べ物を前にして,Petrus は「生理的嫌悪感」を覚えたでしょう.上に言及した民俗学者も,調査のために訪れた地で地元の人々が食する昆虫料理などを勧められると,「気持ち悪い」と思わずにはいられない – しかし,地元の人々と良い関係を築くことは良い調査の必要条件ですから,感謝していただくそうです.同様に,神の愛の福音をユダヤ人でない人々へ伝えるためには,律法に条件づけられた嫌悪感に捕らわれたままでいることはできません.



"Le baptême du centurion Corneille par Saint Pierre" 

par Michel Corneille le Jeune (1642-1708) 


実際,使徒言行録の物語はそのように展開して行きます.つまり,幻覚のエピソードの後,Petrus は,非ユダヤ人である百人隊長 Cornelius のところへ招かれ,福音を説き,彼の家族を始め多くの人々に洗礼を授けることになります.律法で禁止された食材を食べろという命令に「生理的嫌悪感」を克服しつつ従うことによって初めて,Petrus は非ユダヤ人へ全包容的な神の愛の福音を伝えることが可能になります.

使徒言行録 10,28 には,Petrus が確かに非ユダヤ人に対する差別感情を克服したことが記されています:「ユダヤ人にとって異邦人と接触することは律法違反ですが,神はわたしに示してくださいました – 決してひとりの人間のことを[律法の観点から]『下品だ,不浄だ』と言ってはならない,と」.

先ごろ,改正学習指導要領に関する意見公募の際,LGBT 人権擁護活動家たちは heteronormativity を前提する記述を改めるよう要請しましたが,文部科学省の回答はこうでした :「sexual minority について指導内容として扱うことは,個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導,保護者や国民の理解,教員の適切な指導の確保などを考慮すると,難しい」.

それに関連して,先日,朝日新聞に「読者の意見」が紹介されていました.大部分は LGBT friendly ですが,ひとつだけ LGBT-phobic なものが:

小・中・高校生と3人の子どもがいる静岡県のもと看護師は,「思春期になると異性への関心が芽生える」という指導要領に「同性の場合もあり得る」と書き加えられ,教師がそう教えるようになったら,子どもにどのような影響が出るのか母親として憂慮している,と書きました.同性から告白されたらどう思うかと子どもたちに尋ねたら,「困るし,気持ち悪い」,「受け入れられない」という言葉が返ってきたそうです.「多様性を認めるという言葉のもとに『LGBT を受け入れることが道徳であり,優しさである.そうでなければ,差別やいじめである』と教育されるとしたら,子どもたちの言葉は差別発言になるのでしょうか?」

あきれかえります.いったい,この女性は,もし仮に子どもたちが「女性は生理出血するから不浄だ,気持ち悪い」と言ったならば,それを即座に差別発言と断定しないのでしょうか?ひとりの人間に関して「気持ち悪い」と言うのは,当然,差別発言です.そして,そのような差別を克服し得るようにするのが,教育の機能です.

『カトリック教会のカテキズム』2358段には,こう述べられています:

無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.この性向は,(...) 彼らの大多数にとって,試練となっている.彼らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.

そこでは「同性愛者」という表現が使われていますが,sexual minority 全体のことがかかわっていると考えてよいでしょう.カトリック信者は,LGBT の人々を「敬意と共感と気遣いとを以て受け入れる」べきであり,「あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」–「不当な差別」のなかには,Moses の律法の観点から「下品だ,不浄だ」と断罪することも含まれます. 

教皇 Francesco「司牧者としてのわたしの仕事のなかに homophobia が占める場所は無い」と断定した,と伝えられています.同様に,カトリック教会のなかには LGBT-phobia の占める場所はありません.

にもかかわらず,日本には,LGBT の人々が気がねなく御ミサに与ることのできない教会がまだまだあるようですし,LGBT-phobia を公言してはばからない人々さえいるようです.教会のなかで指導的な立場にある人々も,教皇 Francesco のように LGBT 包容の姿勢を積極的に示すことはしてくださっていません.

日本においても世界においても,教会の礎である聖 Petrus にならって,あらゆる差別を克服し,カトリック教会を本当の Ecclesia Catholica にして行くことができるよう,カトリック信者ひとりひとりのよりいっそうの自覚的努力が,必要です.

特に,大司教様と司教様に,LGBT の人々への司牧的配慮に関して『いのちへのまなざし』における以上により積極的な指導的メッセージを発していただきたく,お願い申し上げます.

ルカ小笠原晋也

2017年5月10日水曜日

LGBT とカトリック教義(2017年05月版)

LGBT カトリック教義


性的少数者がカトリック教会によりよく包容され得るために



著者:

ルカ 小笠原 晋也
Luke S. Ogasawara

カトリック本郷教会所属信徒
精神分析家,東京ラカン塾主宰
LGBT 人権擁護活動家,LGBT カトリック・ジャパン 共同代表


Text revised in May 2017




目次


§ 0.


§ 1. LGBT に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

  § 1.1. 同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

  § 1.2. transgenderism に関するカトリック教会の見解


§ 2. 教皇 Francesco の同性愛者司牧の新たな姿勢


§ 3. LGBT に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点

  § 3.1. homosexuality と呼ばれているもの

  § 3.2. 同性愛と聖書 聖書において同性愛は禁止も断罪もされていない

    § 3.2.1. 旧約聖書における男性間性行為の問題

    § 3.2.2. 新約聖書における同性間性行為の問題

  § 3.3. 同性愛行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

  § 3.4. 男女両性の「相互補完性」の神話

  § 3.5. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題


§ 4. sexuality とは何か?


§ 5. 結び




要旨 : カトリック教会の基礎は,神の愛である.神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する.この小冊子においては,この全包容的な神の愛の観点から,カトリック教会の性的少数者に対する伝統的な偏見に対する批判を展開する.また,sexuality の概念について,ラカン派精神分析にもとづく議論を若干紹介する.





そも,あなたたちは皆,信仰によって,Christ Jesus において,神の子である.そも,Christ において洗礼を授かった[Christ のなかへ浸された,つまり,神の愛のなかへ浸された]あなたたちは皆,Christ を身にまとった.もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,奴隷も自由人も無く,男も女も無い.そも,あなたたちは皆,Christ Jesus において一者である. 
聖パウロ (Ga 3,26-28)




§ 0.

人間の sexuality[性本能]について,「神は,人間を御自身の似姿に創造なさった.神の似姿に人間を創造なさった.男と女として人間を創造なさった」,そして,男と女は「ひとつの肉になる」ように愛し合う,と聖書には記されてはいても,「男とは何か?」と「女とは何か?」の神学的な本質規定は明示されていないし,愛し合うのがひとりの男とひとりの女とでなければならないことの神学的に必然的な理由も述べられてはいない.単純に,人間存在に関する素朴な性別二元論と,素朴な道徳規範としての異性愛が,無反省的に想定されているだけである.

しかるに,sexuality の現実はそのような素朴さには還元され得ず,而して,sexual minority[性的少数者]が現存する lesbian[女性同性愛者],gay[男性同性愛者],bisexual[男女いづれをも性愛パートナーとし得る者],asexual[性愛パートナーを持つ必要性を特に感じない者],transgender[存在論的性別と生物学的性別とが解離している者],狭義の queergender identity が流動的な者,gender identity が男女いづれとも特定され得ない者,gender identity が男女のいづれでもない者,gender identity を持たない者,等々],intersex[何らかの先天的な原因により,身体の性分化が非定型的な者],等々.

現在,lesbian, gay, bisexual, transgender の頭文字から成る LGBT という語は,sexual minority の同義語として,一般に広く用いられている.あるいはまた,queer intersex などの gender identity に関する多様な variation等をも含めることを明示するために,LGBT+ などの表記が用いられることもある.

本論文においては,« transgender » « beyond the gender binarism »[性別二元論の彼方]と取ることによって,最も簡潔な « LGBT » という表記を,queer intersex などの多様な可能的 variations すべてをも含む広義において,sexual minority 全体を指す語として用いる.

なお,ここで論ずる LGBT には,pedophilia に属する同性愛者は含まないものとする.pedophilia は,もっぱら思春期に達していない年齢の小児を性欲対象とする性倒錯の一種である.pedophile たちが性本能を行為化すれば,それは,反人道的な強姦とならざるを得ない.そのような病理学的ケースを,ここで論ずる LGBT と同様に擁護することは,当然ながら不可能である.




§ 1. LGBT に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

§ 1.1. 同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢

同性愛に対するカトリック教会の伝統的な姿勢は,『カトリック教会のカテキズム』2357段に要約されている:

同性愛とは,もっぱら または,おもに 自身と同じ性別の者に対して性的に惹かれる男どうしの または女どうしの 関繋を指す.それは,さまざまな時代や文化をとおして非常に多様な形態を取る.それが心的に如何に発生するかは,大部分,未解明のままである.同性愛行為を重大な堕落として提示している聖書に基づいて,伝統は常にこう表明してきた:「同性愛行為は,内在的に乱れたものである」.同性愛行為は,自然の法則に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.

それに続いて,2358段では,こう述べられている:

無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.この性向は,客観的に乱れたものであり,彼ら・彼女らの大多数にとって試練となっている.彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼ら・彼女らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼ら・彼女らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.

この機会に指摘しておくと,『カトリック教会のカテキズム』フランス語版の2358段に記されている « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle »[彼ら・彼女らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない]という文は,日本語版においては訳し落とされている.この文は「同性愛は嗜好の問題だ」というよくある誤解を正すものとして非常に重要であるので,この脱落の事実は広く知らされるべきである.

ともあれ,同性愛に関するそれらふたつの段落を読む者が受ける印象は,こうでしかあり得ないだろう:如何に2358段において同性愛者の受容が勧められていても,その効果は2357段の取りつく島も無い同性愛断罪によって全く打ち消されてしまっており,その結果,同性愛者はカトリック教会のなかに救いを見出すことはできないと感じざるを得ない.



§ 1.2. transgenderism に関するカトリック教会の見解

他方,transgenderism そのものに関しては,カトリック教会は,それを主題として一般的な判断を公式に表明したことはいまだかつて一度も無い.

transgenderism のうちでも特に問題となるであろうのは,性別適合のための医学的処置(外科手術かつ/または性ホルモン療法)を必要とする transsexualism であろう(それに対して,transgender の人々のなかには,身体的性別変更の必要性をさほど感じない者もいる).なぜなら,保守的な立場の者は「性別適合の医学的処置は神により与えられた身体を不当に損なうことだ」と考えるからである.

一般的判断ではなく,ひとつの個別例に関する判断は,既に公式に為されている.詳しく見てみよう.

20157月,スペイン南部に位置する Cádiz 県の或る町で,当時21歳だった transsexual 男性 Alexander Salinas(つまり,彼は,生物学的には女性である身体を持って生まれてきたが,存在論的には男性であり,性別適合手術を受けて,身体においても男性となった)が,彼の姉たちの子である二人の甥の洗礼式で代父となろうとしたところ,地元小教区の司祭はそれを許可しなかった.

この問題は LGBT 人権擁護運動を動員することになり,マスコミにも大きく取り上げられた.一時は「司教の許可が出た」というデマも流れた.

そこで,Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教は,教皇庁の教理省にこの件についての判断を仰いだ.その回答は,201591日付の司教声明のなかで発表された:


その司教声明全文の翻訳は次のとおり:

或る transsexual の人物が洗礼代父になり得るか否かについてさまざまなメディアに現れた主張に対して,わたし[Cádiz y Ceuta 司教区の Rafael Zornoza Boy 司教]は,司牧義務にしたがい,公に,かつ最終的に,次のように表明する:

洗礼の秘跡における代父母は,神と教会の前で,および,受洗者に対して,次のような義務を引き受ける:すなわち,洗礼を秘跡のひとつとする信仰に合致した生活を受洗者がおくり,かつ,それに内在的な義務を受洗者が忠実に果たすことができるよう,受洗者のキリスト者としての養成のために神父と協力すること.この責任に鑑みて,カトリック教会のカテキズムはこう要請している:代父母は「堅実な信徒であり,かつ,受洗者がキリスト者として生きる途上で受洗者を手助けすることができ,かつ,そうする用意のできている者」であること(カトリック教会のカテキズム,1255段).それらのことすべてのために,教会法は – なぜなら,教会内の職務がかかわっているのだから –,幾つかのほかの条件に加えて,次のことを要請している:すなわち,代父母として認められるのは,代父母の責任を真摯に引き受けることができ,かつ,代父母の責任に適う行動を取っている者のみである(教会法典 874 1項および 3項を参照).必要な条件すべてを満たす人物が見つからなければ,司祭は代父母無しで洗礼を授けることができる.代父母は,洗礼の秘跡の儀式のために必須ではない.

わたしが述べてはいない言葉がわたしに帰されたことにより信徒の間に誘発された混乱を前にして,また,当該案件の複雑さとメディア上の重大さのゆえに,この問題に関するあらゆる決定が司牧上有し得る影響を考慮して,わたしは,教皇庁教理省に正式に助言を仰いだ.その回答は次のとおり:

「この問題について,わたし[教理省長官 Gerhard Ludwig Müller 枢機卿]は次のように回答する:許可することはできない.当該人物の transsexual な行動そのものが,自身の性別の真理[引用者による強調]にしたがい自身の性同一性の問題を解決すべきであるという道徳的要請に反する態度を公にあらわにしている.したがって,明らかに,信仰と代父母の職務とに合致した生活を送っている(教会法典 874 1項および 3項)という必要条件を当該人物は満たしておらず,それゆえ,当該人物には代母の職務も代父の職務も容認され得ない.このことに差別を見るのは当たらない.而して,単に,代父母であることの教会内の責任を引き受けるために事の性質上必要とされる条件が客観的に欠けているということが認められただけである.」

実際,教皇 Francesco は,教会の教義との連続性において,幾度かにわたり,transsexual な行動は人間の本性に反していると断言している.最新の回勅において,教皇はこう書いている:「人間エコロジーは,とても奥深いものを含意してもいる:すなわち,人間の生と,人間自身の自然のなかに書き込まれてある道徳律との関繋 – それは,よりふさわしい環境を作り得るために必要なものである.Benedikt XVI はこう断言している:『すなわち,人間のエコロジーがあります.人間は,ひとつの自然を持ってもいます.人間はそれを尊重せねばならず,それに恣意的に手を加えることはできません.人間は,単にみづから自身を作り出した自由ではありません.人間は,みづから自身を作ったのではありません.人間は,霊気であり,意志でありますが,而して,自然でもあります.人間の意志が正しいのは,人間が自然を尊重し,自然を傾聴し,そして,自身を,みづから自身を作り出したのではない存在者として受け容れるときにのみです.まさにそのとき,かつ,そのときにのみ,真なる人間的自由が達成されます』[2011922日,ドイツ連邦議会での演説.この部分は,教皇 Francesco による引用よりも長くルカ小笠原が引用].この意味において,次のことを認めねばならない:我々の身体は,我々を,環境ならびに他の生命存在との直接的な関繋に置く.自身の身体を神の賜として受け取ることは,世界全体を神の賜ならびに共通の家として受け容れ,受け取るために必要である;それに対して,自身の身体を支配しようとする論理は,被造界を支配しようとする論理 – それは,ときとして,巧妙なものであり得る – に成る.自身の身体を受け取り,大切にし,その意義を尊重するのを学ぶことは,真なる人間エコロジーのために本質的である.自身の身体をその女性性ないし男性性において有意義なものと認めることは,異性との出会いにおいて自身を承認し得るためにも必要である.そのようにして,創造主たる神の御わざとしての男または女たる他者の特異的な賜を喜びを以て受け取り,相互に豊かにし合うことが可能になる.したがって,性差に直面し得ないがゆえに性差を消去しようとする態度 [ gender theory ] は,健全なものではない」(Laudato si, nº 155).

以上の理由により,要望を受け容れられないことを当事者に通知した.

教会は,愛を以て人々すべてを迎え入れる.慈しみの心を以て,各人を各人の状況において手助けしたいからである.しかし,教会が宣教する真理 – 自由に受け容れられるべき信仰の道として皆に説く真理 – を否定することはできない.

とりあえず注釈を加えておくなら,引用されている教皇 Francesco の言葉は,transsexualism に関するものではなく,いわゆる gender theory に対する批判である.教理省長官は,恣意的な解釈のもとに,性別適合手術の不容認の根拠として教皇を不当に引用している.教皇 Francesco transsexualism や性別適合手術の問題に関して公式に主題的に論じたことは,今までのところ一度も無い.

ともあれ,上に紹介した一個別例に関しては,教皇庁教理省は,transsexualism において必要とされる性別適合手術は「自身の性別の真理」[ la verdad del propio sexo ] に反するものであり,カトリック教義の観点からは容認され得ない,と公式に判断した.

その結果,何が起きたか? 当の Alexander Salinas 氏のカトリック教会からの離反である.当然であろう.カトリック教会は彼の「性別の真理」を認めようとしないのであるから.


§ 2. 教皇 Francesco の同性愛者司牧の新たな姿勢

2013313日に選出された教皇 Francesco は,同性婚に関しては,カトリック教会内に修復困難な分裂を生じさせぬよう,それを公認することは慎重に避けている (cf. Amoris Laetitia nº 251) ものの, LGBT の人々のための司牧について,就任当初以来,より包容的な姿勢を積極的に打ち出している.

以下に,教皇 Francesco LGBT に関する発言を幾つか紹介する.

まず彼は,2013728日,Rio de Janeiro 訪問からの帰途の機上記者会見で,同性愛について質問した記者への答えのなかで,こう言った:

Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla ?

或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?

それに続いて,『カトリック教会のカテキズム』nº 2358 を記憶で部分的に引用しつつ,彼はこう言った:同性愛のゆえに差別することがあってはならない.同性愛者たちを社会に迎え入れねばならない.

以上の発言を取り上げ直しつつ,教皇は,20138月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica によるインタヴューのなかでこう述べている:

Se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...)

Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : « Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ? » Bisogna sempre considerare la persona. Qui entriamo nel mistero delluomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia.

もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない.(...)

或るとき,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない – 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない.

このように,教皇 Francesco は,『カトリック教会のカテキズム』の2357段落から2358段落へ,アクセントを明瞭に移動させている.

ただそれだけのことで,しかし,彼は,世界中の LGBT の人々に救いの希望をもたらすことに成功した.

彼のそのような司牧的配慮を支えているのは,ときとして無慈悲であり得る律法中心主義を戒めつつ,人間ひとりひとりに寄り添ってくださる神の愛と慈しみを教義の中心に措定するキリスト中心主義である.


20164月に発表された使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]250段落において,教皇 Francesco はこう述べている:

Jesus は,限り無き愛において,各人のために 例外無く,あらゆるひとりひとりのために 御自身をおささげになった.そのような主 Jesus の態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て 「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム nº 2358)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.

そこにおいては,上に引用したインタヴューで述べられていたことが,教皇の公式文書のなかで改めて明言されている.


また,2016626日,アルメニア訪問からの帰途,機上記者会見において,教皇は「教会は同性愛者たちに赦しを請わねばならない」とまで述べている.その部分を引用すると:

Cindy Wooden (Catholic News Service) :

ありがとうございます,教皇様.2, 3日前に Marx 枢機卿は,現代世界における教会を主題として Dublin で催されたとても重要な大きな学会での発表で,カトリック教会は同性愛者差別について gay community にお詫びしなければならない,と言いました[2016623日,Trinity College Dublin The Loyola Institute « The Role of Church in a Pluralist Society : Good Riddance or Good Influence ? » のテーマで催した国際学際学会における München 大司教 Reinhard Marx 枢機卿の発言].Orlando での無差別殺人事件[2016612日に起きたフロリダ州 Orlando gay nightclub Pulse における多人数殺傷事件]の後,多くの人々が,キリスト教は同性愛者に対する憎悪に何らかのかかわりがある,と言いました.どうお考えですか?

教皇 Francesco :

教皇としての最初の旅行[20137月,Rio de Janeiro 訪問]の際に言ったことを繰り返しましょう.そして,わたしが繰り返しているのは,『カトリック教会のカテキズム』 [ nº 2358 ] が言っていることです:同性愛者たちを差別してはならない;彼ら・彼女らを敬意を以て[教会に]迎え入れ,司牧的に彼ら・彼女らに付き添わねばならない.

断罪され得ること – イデオロギー的な理由によってではなく,言うなれば,政治的行動の理由によって –,それは,他者に対してやや侵害的にすぎる或る種の出来事です.しかし,そのような類のことは,同性愛の問題とは無関係です.

問題がそのような事情を有している人のことであり,その人が善意の人であり,かつ,神を探し求めているならば,そのような人を断罪するような我々は何者でしょうか? 我々はしっかり寄り添わねばならない.カテキズムはそう言っているのです.カテキズムは明瞭です.

他方で,幾つかの国や文化のなかには,同性愛の問題について異なる心性を有する伝統があります.

わたしはこう思います:教会は,Marxist 枢機卿が言ったように(笑),教会が傷つけてきた gay の人々にだけお詫びすれば良いのではありません.貧しい人々にも,女性にも,労働において搾取されている子どもたちにも,お詫びしなければなりません.かくも多くの武器や兵器を祝福してきたことについてもお詫びしなければなりません.教会は,行動しないことが数多くあったことについてお詫びしなければなりません.

わたしは「教会」と言いましたが,それは「キリスト教徒」のことです.教会は聖なるものであり,罪人であるのは我々です.

キリスト教徒は,かくも多くの選択に付き添わなかったこと,かくも多くの家族に寄り添わなかったことについて,お詫びしなければなりません.

わたしは,子ども時代の Buenos Aires の文化のことを憶えています.閉鎖的なカトリック文化.わたしの出自です.離婚家族の家を訪れてはならないとされていたのです!ほんの80年前のことです.文化は変わりました.神に感謝!

キリスト教徒がお詫びしなければならないことは,ほかにもたくさんあります.

赦しを請うのです.お詫びするだけではありません.

主よ,お赦しください!

それは,我々が忘却している言葉です.

今,わたしは牧者として説教していますが,まことには,[慈しみ深い]父ではなく,[厳しい]主人であるような司祭であったこと,抱擁し,赦し,慰める司祭ではなく,鞭打つ司祭であったことが,たくさんありました.

しかし,病人や受刑者に付き添う司祭もたくさんいます.多くの聖人もいます.だが,彼らは目に見えません.なぜなら,聖性は慎み深いのです.聖性は隠れています.

逆に,厚かましさは目立ちます.目立つし,見せびらかします.

多くの組織 – そこには善人もいるし,あまり善人でない人々もいます.あるいは,ちょっと大きめの財布を渡してあげたくなる人々もいれば,他方で,あの[20世紀の]三大虐殺[トルコによるアルメニア人虐殺,Nazi によるユダヤ人虐殺,Stalin による虐殺]を起こした国際的な大国のようなのもあります.

我々キリスト教徒 – 司祭,司教 – も,そのようなことをしたのです.

しかし,我々キリスト教徒は,カルカッタのテレサのような人をも持っています.カルカッタのテレサのような人々を,たくさん.アフリカの多くのシスターたち,多くの一般信徒,多くの聖なる夫婦.

良い麦と毒麦です.神の御国はそのようだ,とイェスが言うように.

そのようであることに躓いてはなりません.我々は祈らねばなりません.主が,毒麦は終わり,良い麦がより多くあるようにしてくださるよう,祈らねばなりません.

教会の生は,そのようなものです.境界を引けるわけではありません.我々は皆,聖なる者です.なぜなら,我々は皆,聖霊を内にいただいているからです.しかし,我々は皆,罪人です.わたしを始めとして.

よろしいですか? ありがとう.答えになったかどうかわかりませんが... お詫びするだけでなく,赦しを請いましょう.


以上に紹介したように,教皇 Francesco は,彼の包容的な司牧的配慮のもとに,カトリック教会内で伝統的であった律法中心主義的な同性愛断罪を否定しないままに放棄し,代わって,いかなる差別をも廃し,あらゆる者を神の愛と慈しみにおいて受容するキリスト中心主義的な姿勢を前面に打ち出している.

それによって教皇は,世界中の LGBT の人々に,神による救いの希望をもたらすことに成功した.

そのような教皇の姿勢は,あらゆるカトリック信徒にとって見習うべき手本となるものであろう.


また,教皇 Francesco は,20161002日,Baku から Roma への帰途の機上記者会見で,transgender について初めて言及しつつ,こう述べた:

わたしの人生において,司祭として,司教として,そして教皇としても,わたしは,同性愛者たちに寄り添ってきました.彼ら彼女らが主に近づくことができるようにしてきました.そうできない人々もいましたが,わたしは寄り添いました.誰も見捨てませんでした.

Jesus が彼ら彼女らに寄り添うように,彼ら彼女らに寄り添わねばなりません.彼ら彼女らのような状況にある人が Jesus の御前にやってきたら,Jesus は「同性愛者は立ち去れ」とは決して言わないでしょう.(...)

昨年,或るスペイン人男性 [ Diego Neria Lejárraga ] から手紙を受け取りました.彼は,自身の子ども時代と思春期のことをわたしに物語ってくれました.彼は,女の子でした.しかし,身体的には女の子なのに,自身を男の子と感じていたので,とても苦しみました.(...) [性別適合の]手術を受けて,スペインの或る町の公務員になりました.彼は,司教に会いに行きました.その司教は,彼に寄り添いました.良い司教です.それから彼は,戸籍上の性別も変え,結婚しました.そして,わたしに手紙を書きました.妻も一緒にお会いくだされば慰められます,と.そこで,わたしは彼と彼女に会いました[教皇は,住居としている Casa Santa Marta で,2015124日,非公開に彼らと接見した].ふたりは喜びました.(...)

人生は人生です.物事は起きるがままに受け取るべきです.(...)

LGBT の人々]ひとりひとりを迎え入れ,寄り添い,その人をよく見て,分析し,総合します.今日,Jesus ならそうなさるでしょう.(...)

事は,道徳の問題であり,人間的な問題です.問題は,解決可能なように解決されねばなりませんが,常に神の慈しみを以て,真理を以て,解決されるべきです.(...) 常に開かれた心を以て.


教皇 Francesco の発言の紹介のしめくくりに,20161112日,慈しみの特別聖年の接見での彼の説教:「慈しみと包容」を引用しよう.確かに,そこにおいて教皇は,LGBT に特に言及はしていないが,しかし,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しており,« God’s love excludes nobody, but includes everybody »[神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する]という我々のスローガンを最も良く説明してくれている.包容 [ inclusion ] の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化している.なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけるが,「包容」の方がはるかに適切な訳語であろう.

慈しみと包容

親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,Christ において,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,Christ のからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,Christ のからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活した Christ の大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,Christ の抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.
  


  
§ 3. LGBT に関するカトリック教会の判断に含まれる問題点


§ 1 で見たようなカトリック教会による同性愛の断罪と性別適合医療処置の不容認の姿勢は,当然ながら,結果的に,LGBT の人々をカトリック教会から排除することにならざるを得ない.そのような事態は,あらゆる者を包容する神の愛に適っているだろうか? 我々はそうは思わない.

伝統的なカトリック教義に含まれる幾つかの問題点が指摘される:

1) 聖書において断罪されている同性間性行為は,実は,homosexuality の行為ではなく,同性「愛」の行為でもない;

2) 「同性愛行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,男女のカップルが愛し合うのと同様に同性愛者のカップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している;

3) 神により結ばれた男と女は「ただひとつの肉に成る」という観念に含まれる男女両性の complementarity[相互補完性]は,実際には,ひとつの神話的思念にすぎない;

4) transgenderism において問われている「自身の性別の真理」は,単に生物学的なものではなく,而して,本当の意味で神に与えられたもの,つまり,存在論的な gender identity である.



  
§ 3.1. homosexuality と呼ばれているもの

homosexuality と呼ばれているものも,homosexuality という語そのものも,聖書や神学の語彙には属していない.

Homosexualität という語は,19世紀後半にドイツ語において,Heterosexualität との対において新造された.そして,Homosexualität は,ドイツとオーストリアで臨床医および大学教授として仕事した精神科医 Richard von Krafft-Ebing (1840-1902) により,彼の1886年初版の著書 Psychopathia sexualis において,性倒錯 つまり,性的な欲望の病理学的諸形態 のひとつとして,精神病理学と司法医学の観点から初めて詳細に研究された.

そこにおいて Krafft-Ebing は,homosexuality は生得的なものであり,それについて当人の責任を問うことはできない以上,homosexual acts を刑法的に断罪することは公正ではない,と主張した.同性愛行為を処罰する国々が少なくなかった当時,それは初の脱刑事罰化の提唱であった.

先進国の大部分は,1980-1990年代に同性愛行為を脱刑事罰化した.しかし,おもにアジアとアフリカに位置する約70の国々では,いまだに同性愛行為を刑法的に断罪している.

精神医学の領域では,1970年代に homosexuality の脱病理化が実現された.同性愛はひとつの精神疾患とは見なされ得ない:なぜなら,同性愛は,そのものとしては,「必ず主観的な苦悩を惹起し,または,有効な社会的機能性の全般的障害を伴う」(cf. DSM-III) ことはないからである.

以上のような脱刑事罰化と脱病理化のもとに,今,我々が homosexuality と呼ぶところのものは,このような事態である:すなわち,同性の者たちの間で,一方が他方に,または相互的に,性愛的に惹かれ,かくして,もし好条件に恵まれれば つまり,其のもとに異性カップルが永続的な絆を形成し得るところの諸条件と同様の諸条件に恵まれれば ,当該の二人は,永続する誠実なカップルを形成し,共に生きることになる.

今,我々が homosexuality という名称のもとに理解しているのは そして,もしその語を「同性愛」と邦訳するなら,同性愛という名称のもとに理解しているのは ,そのような事態である.



§ 3.2. 同性愛と聖書聖書において同性愛は禁止も断罪もされていない

§ 3.2.1. 旧約聖書における男性間性行為の問題

現代社会において homosexuality ないし同性愛と呼ばれているものが同性カップルの真摯かつ誠実な愛情関係であるとすれば,旧約聖書の幾つかの箇所において言及されている男どうしの性行為は,homosexuality の行為でも同性愛の行為でもない.

まず,「ソドムの罪」として創世記 19,1-29 に示唆されているのは,実際には,或る heterosexual の男が他の男に対して為す性的暴力である.その目的は,暴力的支配であったり,攻撃や傷害や破壊であったり,侮辱であったりするであろう.いずれにせよ,通常の意味での性的な欲望がかかわっているのではなく,また,現代社会における gay どうしの優しい愛情に満ちた人間的関係が問題とされているのでもない.

次に,レビ記 18,22 および 20,13 において禁止されていることは,「聖性の律法」の文脈において読解されるなら,heterosexual の男が,性的衝動に駆られて,女に対して姦淫や強姦を犯すのと同様に,男に対して なぜなら,対象となる女が手近に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して 姦淫や強姦を犯すことである.そこにおいても,かかわっているのは,gay どうしが真摯かつ誠実に愛し合うことではない.

そのほか,申命記 23,18 や列王記上巻 14,24 には,カナン地域の土着の神 Baal の崇拝との関連において,豊饒祈願儀式として神聖売買春が行われており,そのような売春を行う者のなかには男も女もいたことが示唆されている.申命記では,イスラエルの民のなかには神聖売春を行う娼婦も男娼も存在してはならず,また,神聖売春により得られたものを主への献げ物としてはならない,と述べられている.神聖売買春の禁止は,当然ながら,主以外の神々の崇拝の禁止に包含されている.ともあれ,そのような状況における男どうしの性行為も,現代社会における gay どうしの性愛関繋とはまったく異質のものである.



§ 3.2.2. 新約聖書における同性間性行為の問題

新約聖書に収録されている書簡のなかで聖パウロが言及している同性間性行為についても,旧約聖書から出発して読解されるべきである.

ローマ書簡 1,17 において ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται[信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる]と公式化した後,聖パウロは,すぐさま,同書 1,18-32 において,その逆の場合,つまり,神を信ぜず [ ἀσέβεια ], 偶像 [ ὁμοίωμα εἰκόνος ] を崇拝することにおいて,義ならざる者たち [ ἀδικία ] について論ずる.

そのような者たちは神の怒り [ ὀργὴ θεοῦ ] を受け,神は彼らを,彼らのこころの欲望において [ ἐν ταῖς ἐπιθυμίαις τῶν καρδιῶν αὐτῶν ], 不浄 [ ἀκαθαρσία ] と恥辱の熱情 [ πάθη ἀτιμίας ] へ引き渡す.それによって,彼ら,および,彼らの一族(または家族)の女たちは,自然に反して [ παρὰ φύσιν ] 同性相手と性関繋を持つことになる.

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,22 20,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

そも,「不正義」や「不浄」は,「聖性の律法」に対する違反がかかわっていることを示している.そして,そのように禁を犯す者は,そもそも,神を信じておらず,偶像崇拝に陥っている.

であればこそ,§ 2 において見たように,教皇 Francesco はこう断言することができる : « se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla »[もし或る同性愛者が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしは,その人を断罪する者では全然ない].

むしろ,たとえ異性間の性行為であろうとも,神を信じないことにおいて義ならざる偶像崇拝者たちが衝動のままに為すものであれば,それは,断罪さるべき姦淫行為にほかならない.

そのほか,第一コリント書簡 6,9 と第一ティモテオ書簡 1,10 において聖パウロは「同性愛者」を断罪している,と言われている.

当該箇所のフランス語訳においては pédéraste, 日本語訳においては「男色をする者」(新共同訳)や「同性愛に耽る者」(フランシスコ会訳)という表現が見出される.

しかし,ギリシャ語原文で用いられている語は ἀρσενοκοίτης である.それは,文字どおりには「男と性交する男」である.

フランス語訳の pédéraste παιδεραστής (< παῖς + ρως ) に由来し,後者は,古代ギリシアではむしろ公序良俗に属する「少年を愛する者」である.

しかし,聖パウロの言葉を文脈において読むなら読み取れるように,彼が断罪しているのは,ギリシア的な παιδεραστία としての同性愛でも現代社会における gay どうしの同性愛でもなく,而して,レビ記において禁止されているような衝動的同性間性行為か,または,申命記において禁止されているような神聖売買春における同性間性行為である.

以上のとおり,改めてよく読み直すなら,聖書のなかには,旧約においても新約においても,現代社会において同性愛と呼ばれているものに対する禁止も断罪も見出されはしない.

つまり,聖書のなかに同性愛に関する否定的な言説を読み取る者は,聖書の権威で自身の憎悪に満ちた差別的イデオロギーを飾り立てるために,聖書を誤読し,曲解しているだけである.



§ 3.3. 同性愛行為は生殖を目的としない快楽追求にすぎないという偏見

「同性愛行為は,生殖を目的とせず,性欲の満足を得ることのみを目的とするものであるので,容認され得ない」との偏見は,男女のカップルが愛し合うのと同様に同性愛者のカップルも愛し合い得るという事実を無視しており,かつ,生殖を単純に生物学的なものと見なす過誤を犯している.

「同性愛行為は,生殖を目的としない快楽追求にすぎない」という偏見は,実際には,「同性愛行為においては生殖は不可能であるがゆえに,同性愛行為は快楽追求にすぎない」という思念に基づいている.

確かに,同性どうしの性関係は生物学的な意味における生殖活動を包含し得ない.しかし,だからと言って,それが単なる快楽追求であるということにはならない.

実際,教皇 Francesco Amoris laetitia nº 125 において Gaudium et spes を引用しつつこう述べている:

さらに,結婚は,熱情に固有の音調を含む友情であるが,常により堅固かつ強固な絆となるよう絶えず方向づけられている.そも,「結婚が制度化されているのは,生殖のみを目指してではなく」,而して,相互的な愛が「その廉直さにおいて表現され,進歩し,花開く」ためである (Gaudium et spes, nº 50). ひとりの男とひとりの女との間のこの特別な友情は,ひとつの全包含的性格 それは,夫婦の絆においてのみ見出される を有するようになる.まさに全包含的であるがゆえに,その絆は,第三者を容れないものでもあり,互いに忠実でもあり,生殖へ開かれてもいる.ふたりは,相互的敬意において,すべてを sexuality をも 分かち合う.そのことを第二 Vatican 公会議はこう言って表現した:「そのような愛は,人間的なものと神的なものとを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く.それは,優しさの感情と所作によって顕わされる.そして,それは,夫婦生活全体に浸透する」(Gaudium et spes, nº 49).

そのような相互的自己贈与としての相互的愛は,異性どうしのカップルにおいてだけでなく,同性どうしのカップルにおいても勿論可能である.そのことは,既に同性婚が法制化されている諸国において,あまたの実例によって証明されている.

また,カトリック信徒にとって,procreation[生殖]は単に生物学的意味において子孫を作ることではない.より本質的なのは,次世代へ信仰を伝達することである.procreation は,新たな信徒を生み出すことを包含しており,むしろそのことこそが procreation において肝腎なことである.

だとすれば,同性カップルが養子を取り,その子を愛情と信仰を以て育て,その子に神の愛を伝えることができれば,それは,生物学的生殖に勝るとも劣らない procreation である,と言うことができるだろう.

実際,同性婚が法制化されており,同性カップルが養子を取ることも認められている諸国においては,同性カップルの子どもたちは,異性カップルの子どもたちと同様に,幸福に育っている.むしろ,望まずに子どもができてしまった異性カップルの子どもより,心から子どもが欲しくて養子を取った同性カップルの子どもの方が,より健康的で幸福である,という報告もある :




§ 3.4. 男女両性の「相互補完性」の神話

『カトリック教会のカテキズム』372段落には,こう述べられている:

男と女は「互いのために」造られている.神は,男と女を「半人前」の「不完全」なものとして造ったわけではない.神は,男と女を personarum communio[人と人との交わり]のために創造した.その交わりにおいては,一方は他方の「助け」であり得る.なぜなら,男と女は,同時に,人として平等 [ aequales ] であり,かつ,男女として相互補完的である [ sese mutuo complent ] からだ.結婚において,神は男と女を結び合わせる 男と女が「ただひとつの肉」と成って (Gn 2,24), 人間生命を[子孫へ]伝え得るように : « Crescite et multiplicamini et replete terram » (Gn 1,28). 人間生命を子孫へ伝えることにおいて,男と女は,配偶者および親として,無類のしかたで創造主の御業に協力する.

同様に,1986101日付で教皇庁教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(現名誉教皇 Benedikt XVI)の名において発表された『同性愛者に対する司牧に関するカトリック教会司教への書簡』[ Epistula ad Universos Catholicae Ecclesiae Episcopos de Pastrorali Personarum Homosexualium Cura ] (Homosexualitatis problema) nº 6 には,こう述べられている:

創世記に包含れている創造の神学こそが,同性愛が措定する諸問題の適切な理解のための根本的な観点を提供してくれる.神は,無限なる知恵と全能なる愛とにおいて,万物を,神の善意の反映として,現存へ呼び出す.神は,御自身の写しや似たものになるよう,人間を男と女として創造する.したがって,人間は,神の被造物のうちで,男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] をとおして創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映するよう呼ばれている被造物である.この任務を,人間は,夫婦が相互に自己贈与することによって生命を[子孫へ]伝えることにおいて神と協力するとき,無類のしかたで果たす.

つまり,「ただひとつの肉と成る」ことを可能にする「男女両性の相互補完性」は,申命記 6,4 において「聴け,イスラエル!」の呼びかけに続いて「我れらの神,主は,一なる主である」と公式化される神の単一性を反映するもの,と思念されている.

ところで,「男女両性の相互補完性」とは,より正確に考察してみるなら,如何なるものか? 男女それぞれの性器の解剖学と生理学が,男女が「ただひとつの肉と成る」ことを保証しているのか? そのような男女の「性器的」相互補完性の思念は,「ただひとつの肉と成る」ことの神学的な理解としては,あまりに素朴であり,粗雑であろう.

この「男女両性の性器的な相互補完性」という「常識」的で「普遍」的な思念が実は単なる神話にすぎない Freud が著書『トーテムとタブー』で提示した Urvater[源初の父]の神話と同様にまったくの作り話にすぎない ということは,ラカン派精神分析家である筆者にとっては,一目瞭然である.Lacan の一見逆説的なこの公式にもとづいて:「性関係は無い」[ il n’y a pas de rapport sexuel ].

医学や心理学を含む世の臆見においては,こう思念されている:性本能 [ sexualité, Sexualität ないし pulsion sexuelle, Sexualtrieb ] の発達がその完成段階としての性器的成熟に至ると,異性間の性器的な性交の行為において,性本能の十全な満足が成就される.それ以前の未成熟な段階においては,性本能は,前性器的な部分客体(たとえば,口唇にとっての乳房とその等価物,肛門にとっての糞便とその等価物,等々)において,あるいは,自慰行為において,不完全で不十分な満足をしか得ることができない.

性本能の満足のことを,Lacan は「悦」[ jouissance ] と呼んでいる.その用語によれば,未成熟な前性器的段階における満足は「剰余悦」[ plus-de-jouir ] と呼ばれ,成熟した性器段階における満足は「性器的悦,性器悦」[ jouissance génitale ] ないし「性的な悦,性悦」[ jouissance sexuelle ] と呼ばれる.

「性関係は無い」とは,性器悦は不可能である,ということである.

なぜ性器悦は不可能であるのか?それは,それを可能にするかもしれない性器 phallus は,実際には,不可能であり,存在事象の領域には欠如しているからである.

常識的な思念において「性的」な満足と見なされているものは,不可能な性悦の代わりに,さまざまな前性器的ないし非性器的な客体において得られる剰余悦にすぎない.

男が持ち得る関繋は,悦が固着した諸客体との関繋のみである.それら客体は,本質的に fetish であり,女の存在との直接的に統一的な交わりに入ることを妨げる.

他方,女は,自身をそのような fetish にし,本来的な自己ではない fetish としてのみ男の欲望と関繋し得る.もし女が fetish としての自身を廃することを敢行するなら,彼女は,アビラの聖テレサのごとく神秘的な解脱状態に陥るが,しかし,そのような場合,彼女のパートナーは,もはや人間としての男ではなく,神そのものである.

精神分析の臨床的な作業は,悦の非性器的な固着を解消することに存する.しかし,そのような作業の結果として,男女両性の間の性器的な交わりが可能になるわけではない.

精神分析の経験においては,古代にエジプトやギリシャで行われていた秘儀におけるように phallus の仮象が啓示されるのではなく,むしろ,phallus の欠如 Freud が「去勢」と呼んでいた欠如 の穴こそが顕わとなる.それが,Lacan が公式「性関係は無い」を以て指し示す穴である.

その穴は,不安 Freud が「去勢不安」と呼んでいたもの を惹起する.症状は,その不安をごまかすために穴を剰余悦で埋め合わせることに存する.精神分析治療は,逆に,穴を新たな剰余悦で埋め合わせるのではなく,口を開いた穴が惹起する不安に耐えることを可能にする.

「性関係は無い」の穴のゆえに「男女両性の性器的な相互補完性」は不可能であるのだから,男と女との関繋を特権化することは正当化され得ない.ふたりの人間の性器的な相互補完性は,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,同じように不可能である.

我々は,むしろ,こう指摘することができるだろう:神の「内的な単一性を反映」し得るのは,男女の「性器的」相互補完性ではなく,而して,Gaudium et spes 49節で説かれているような愛の絆である.

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に,誠実に,情熱的に愛し合うとき,「その愛を,主は,主の恵みと主の愛を特別に賜ることによって,癒し,完成し,高めてくださる.そのような愛は,人間的な愛と神的な愛とを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く」(Gaudium et Spes, nº 49).

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間がそのように愛し合うとき,それこそは優れて,一なる神の愛の徴である.



§ 3.5. transgenderism において問われる「自身の性別の真理」の問題

transgenderism という人間的事実は,「自身の性別の真理」とは何のか?という問いを,我々皆に突きつける.

transgender の人々は,典型的には,言語の世界に住み始めるやいなや,つまり,満 1, 2 歳のころから,解剖学的・生理学的性別とは異なる側の性別の人間として存在し,生きる.

例えば,男の子の身体に生まれてきても,女の子向けの服装やオモチャを「本能的に」選び取る.あるいは,杉山文野氏は自伝『ダブルハッピネス』(講談社文庫,2009年)において,「ものごころついてからずっと,気持ちは“僕”なのに,からだは女だった.以来,僕はずっと,女体の着ぐるみを身に着けているかのような感覚のまま,人生を過ごしてきた」と証言している.

ところで,こう問うてみよう : transgenderism は,生物学的性別と心理学的性別との解離へ還元され得るか?言い換えると,transgender 問題は,いわゆる心身二元論の展望において適切に思考され得るか?

否.逆に,もし然りと答えるなら,conversion therapy と呼ばれる一種の認知療法を正当化することになるだろう.そこにおいては,自身の性別の認知(いわゆる性自認)と生物学的事実との解離を解消するためには,「自身の性別の真理」である身体的性別に合致するよう,誤った認知を矯正すればよいのだ,と思念されている.

ついでに指摘すれば,「性自認」という表現そのものが,自身の性別の真理は身体的性別の側に存するという想定を既に暗に受け入れており,conversion therapy の余地を残してしまっている.

conversion therapy は,治療的に無効であるばかりか,患者を自殺へ至らせさえするがゆえに,容認され難いものだ,ということをここで強調しておこう.

話を戻して,transgenderism という人間的事実により措定される本質的な問題を適切に思考するために,心身二元論を超克して,こう定式化しよう:transgenderism は,存在事象的な性別 [ ontic sex ] と存在論的な性本能 [ ontological sexuality ] との存在論的な解離に存し,その解離においては,存在事象的に男性である者が存在論的には女性であり,存在事象的に女性である者が存在論的には男性である,という事態が成立する.

そして,「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的な性別の側にではなく,而して,存在論的な性本能の側にである.

そのような存在論的観点から,我々は,人間存在に関する同様の解離を聖パウロが第一コリント書簡 15,42-44 で論じているのに気づく:

死者の復活についても同様である.朽ち果てるものとして種蒔かれても,朽ちることなきものとして復活する.卑しいものとして種蒔かれても,栄光において復活する.弱きものとして種蒔かれても,力に満ちて復活する.σῶμα ψυχικόν[生物的身体]として種蒔かれても,σῶμα πνευματικόν[霊気的身体]として復活する.σῶμα ψυχικόν があれば,σῶμα πνευματικόν もある.

一方に存在事象的性別と存在論的性本能との区別があり,他方に σῶμα ψυχικόν σῶμα πνευματικόν との対置がある.それらふたつの対立は,合同である.

かくして,我々はこう言うことができるだろう:「自身の性別の真理」が存するのは,存在事象的性別ないし σῶμα ψυχικόν の側にではなく,而して,存在論的性本能ないし σῶμα πνευματικόν の側にである.

なぜなら,神の創造の真理が存するのは,死すべき生物の σῶμα ψυχικόν の側にではなく,永遠の命において我々が生きるところの σῶμα πνευματικόν の側にであるから.

性別の真理は,単に解剖学的・生理学的性別のものではなく,而して,存在論的な性別のものである.そして,後者こそが,本当の意味で神に与えられたものである.

かくして,transgender の人々のための医学的性別適合処置は,神によって創造された身体を不当に損なう冒瀆的な人為ではなく,むしろ,神の創造の真理を尊重することである.なぜなら,それは,存在事象的な σῶμα ψυχικόν を存在論的な σῶμα πνευματικόν に合致させようとすることであるから.

transsexual の人々は,持って生まれた性別の身体に非常に強い違和感を覚えており,そのため,欝状態に陥ったり,自傷行為を繰り返したり,自殺してしまうことすらある.性別適合手術は,彼ら・彼女らの精神的な救いとなる限りにおいて,容認されるべきである.その不容認は,彼ら・彼女らに対する非常に不寛容にして残酷な態度であり,非人道的との批判を免れ得ないだろう.

教皇 Francesco が同性愛者について言ったように,こう言うことができるだろう:或る人が transgender であり,主を求めており,善意の人であるなら,彼ないし彼女を医学的性別適合処置のゆえに断罪する我々はいったい何者か?
  



§ 4. sexuality とは何か?

最後に,sexuality に関して論ずるために前提的に必要とされることがらについて,可能な限りで論じておきたい.

sexuality に関しては,ふたつの側面が区別される:

ひとつは,Freud の用語で言うなら,object choice[対象選択].

おおざっぱに説明するなら,対象選択においてかかわるのは,「性的な関心が何に向けられるか?」の問題である.昨今,一般的に「性的指向」[ sexual orientation ] という表現が用いられているが,精神分析家としては「対象選択」という用語を再び登用したい.

「選択」と言っても,それは,我々が意志的ないし意図的に選択するわけではない.選択するのは,言うなれば,性本能である.我々のうちに見出されながらも,我々自身にあらざる何ものかとしての性本能が,選択する.

性本能は,ある対象を選択する.そこにおいて満足の可能性を見出すために.

その対象は,ひとりの人間であることもあるし,そうではない何ものか たとえば fetish であることもある.

LGBT との関連で言えば,対象として選ばれる相手は,もっぱら異性である;もっぱら同性である;どちらでもあり得る;そもそも性的対象選択が起こらない,等々の variations があり得る.

それら多様な選択に論理必然性は無い.もっぱら個人の生活史上の偶然的条件により選択は規定される.

第二に,いわゆる sexual identity[性同一性]. そこには,さらに,三つの側面が区別される:

1) 生物学的性別 (biological sex) : 性染色体によって決定される身体的性別.しかし,何らかの先天的条件による非定型例が幾種類もあり得る;

2) 社会学的ジェンダー (sociological gender) : 歴史的,文化的,民族学的,等々の後天的な諸条件により規定される性別.或る個人に対して,その人が何らかの意味で所属している集団が其の遂行を要請してくるところの性別役割.あくまで人為産物である;

3) 存在論的性別 (ontological sexuation) : 先ほど transgenderism との関連において論じた「自身の性別の真理」がかかわるところの存在論的な「男で在る」または「女で在る」.ただし,単純な男女二元論ではない.「女で在る」は,実際には,「男に在らず」という否定的な規定性であって,そこには「男で在る」以外のあらゆる性的多様性が包含される.

先ほども指摘したように,transgenderism との関連でよく言われるようなしかたで生物学的な性別と心理学的な性別とを区別するだけでは不十分である.transgender の人が,身体的には男であっても「わたしは女である」と感じ,あるいは身体的には女であっても「わたしは男である」と感ずるとすれば,その性別感覚は,単なる錯覚や認知錯誤ではあり得ない.そうではなく,それは存在論的性別に準拠した感覚である.身体的性別とは異なる性別の「真理」,存在論的な「男で在る」ないし「女で在る」という事実にもとづく感覚である.

また,社会学においては,生物学的性別と社会学的 gender との区別しか考慮されていない.教皇 Francesco は,社会学的な gender theory を批判しているが,それは,gender theory においては性別は gender という人為産物へ還元されてしまうからである.教皇が言いたいのは,性別は神の創造であって,人為産物ではない,ということである.先にも指摘したとおり,生物学的性別ではなく,存在論的性別こそが,神の創造した性別である.

さように,存在論的性別が考慮されないことによって,さまざまな無用な混乱と対立が生じている.

さて,この小冊子のなかで存在論的性別について詳論するのは困難であるが,できる限りで Lacan の性別についての議論を紹介してみよう.

精神分析の基礎を成す存在論は,いわゆる実体論的存在論 [ ontologie substantialiste ] でも本質論的存在論 [ ontologie essentialiste ] でもなく,而して,否定存在論 [ ontologie apophatique ] である.そして,その存在論は,topologique に展開される.

以上のことを,Lacan は,Heidegger から学び取っている.

否定存在論においては,存在 [ Sein ] は,ひとつの実体でも本有でもない.実体や本有(本質)は,存在事象 [ Seiendes ] の側のものである.

しかるに,否定存在論においてかかわる存在は,存在論的差異によって,存在事象から本源的に分離されつつ結合されている.

topologique に言えば,存在の在処 [ die Ortschaft des Seins, la localité de l’être ] は,存在事象の場処 [ die Ort des Seienden, le lieu de l’étant ] に対して ek-sistent, ex-sistent[解脱実存的]である.

topologie がかかわるのは,存在をひとつの場として思考するからである.存在は,実体や本有ではない.存在事象ではない.かと言って,単なる無ではない.存在は,それ自体としては空(から)であるひとつの空間,ひとつの場であり,その場は,存在事象が位置する場から,存在論的差異によって分離されつつ結合されている.

そのような在処としての存在が,否定存在論においてかかわる存在である.

否定存在論における存在は,神の存在であり,かつ,人間の存在である.神と人間は,存在において交わりあっている.あるいは,人間は,本来的に,自身の Dasein[現場存在]において,神の存在を匿う.

さて,神に性別は無い.『カトリック教会のカテキズム』nº 370 において述べられているように,神は,たとえ Jesus によって「父なる神」と呼ばれてはいても,純粋霊気であって,性別は無い.

言い換えると,神は純粋存在である,すなわち,そのものとしては空(から)の解脱実存的在処である.

しかし,神は「父なる神」と呼ばれる.つまり,存在の在処に phallus が解脱実存する.解脱実存的な父の phallus である.

男女の性別は,父の phallus との関係によって規定される.

父の phallus の代理となる phallus に与りつつ存在することによって規定される集合に属することが,存在論的な意味における「男で在る」である.

それに対して,自身に対して他者である側に父の phallus が位置づけられる構造において存在することが,存在論的な意味における「女で在る」である.

ただし,上にも述べたように,「女で在る」は,あくまで「男で在る」に対する否定的規定性であって,そこには,「男で在る」以外のあらゆる可能的多様性が含まれている.

また,改めて強調するなら,存在論的性別は,生物学的性別とはまったく別の次元のことである.生物学的な女性が存在論的には男性であることもあり得,生物学的な男性が存在論的には男性ではないこともあり得る.

以上のように規定される存在論的性別が,性的対象選択の様態を規定する.

性的対象選択において,「女で在る」者は欲望の客体となり,「男で在る」者はその客体を欲望する主体となる.その存在論的構造においても,解脱実存的な父の phallus は「男で在る」者の側に位置している.

「男で在る」者は,欲望として,客体における剰余悦に支配される位置にあり,客体に依存し続ける.つまり,剰余悦から脱することはできない.

それに対して,「女で在る」者は,欲望の客体として,欲望としての主体に対して支配的な座に位置する.そして,客体として自身を捧げ,滅ぼさせることにより,剰余悦を越えて,不可能な性悦へ近づこうとする.

Lacan はさまざまな記号や図を用いるのだが,ここではそれらを持ち出すことは控え,以上の説明にとどめておく.



  
§ 5. 結び

本論文において,我々は,sexual minority の実存の実事性が提起する諸問題に関して,カトリック教会の伝統的な見解を改めて検討した.

キリスト教の最も根本的なよりどころは,神の律法ではなく,而して,神の愛である:神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を包容する [ God is Love excluding nobody, but including everybody ].

この全包容的な神の愛に寄って立つとき,sexual minority に対するカトリック教会の伝統的な姿勢は神の愛に適うものとは思われない.よって,幾つかの批判的な議論を我々は展開した.

教皇 Francesco は,LGBT に対する従来の断罪を放棄し,神の慈しみにおいて sexual minority を包容する姿勢を前面に打ち出している.そのような良き司牧者を我々に与えてくださったことを,我々は主に感謝する.

ただ,教皇 Francesco のもとでも,すべてが解決したわけではない.『カトリック教会のカテキズム』のなかの同性愛断罪の文言は削除されておらず,transgender を代父母の役から排除した Vatican の決定は取り消されてはいない.同性カップルは結婚の秘跡を授かることはできず,公に同性愛者である者は司祭に叙階され得ない.

神の全包容的な愛が世において実現されるよう,我々は可能な限り努力し,そして,祈り続けたい.

 20175

ルカ小笠原晋也




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LGBTCJ (LGBT Catholic Japan) は,カトリック教会が性的少数者の人々により良く寄り添うことができるようお手伝いする有志カトリック信徒の活動です.日本カトリック中央協議会の公式な委員会やデスクではありません.「東京カリタスの家」常任理事,小宇佐敬二神父様を始め,性的少数者に御理解のある神父様がたに,御指導いただいています.

現在,おもな活動は,毎月一回,日曜日の午後に行われるLGBT 特別ミサと,ミサ後の分かち合いの集いです.

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